和文組版,その来し方行く末
〜いまだからこそ「こだわり」とその背景を知ろう〜
プロとして組版に関わっていく第一歩は、「ルール」や「方法論」を丸暗記することではなく、その背景を知ることである。このルールや方法論は試行錯誤の結果であり,機器の制約や経済情勢の妥協点の産物でもあります。その理由を知ることが将来の日本語文字組版の発展につながるのだろう。
編集者で日本エディタースクールの講師も務める大西哲彦氏に話を聞いた。
Q: 現在、印刷博物館(東京)の企画展として「ヴァチカン教皇庁図書館展」(書物の誕生〜写本から印刷へ)が開催されていますが、改めてこれらを眺めてみますと、複製術としての印刷技術以前(グーテンベルグ)に、高度な表現技術がすでに確立されており、書物の原型ができあがっていることに驚かされます。日本ではやっと組版についてのルール(JISX4051)ができた状態ですが、このギャップをどう思われますか。
大西――わが国の文字印刷・出版の技術は,その黎明期において,ヨーロッパ諸国にけっして劣っていないと感じます。
この例としては,たとえば「嵯峨本」です。角倉素庵(すみのくらそあん)と本阿弥光悦が慶長(1596−1615)から元和(1615−1624)に製作・出版した書籍の総称がこの嵯峨本ですが,木活字で組むこの本の漢字かな混じりの本文,そして造本・装幀の美しさには息をのみます。
そして連綿体活字(連刻木活字)という2−3字のかな文字を2倍あるいは3倍活字とした組版は,その基本単位を全角においた点からも今日の日本語組版のあり方を示唆しているように感じます。同じころの漢字かな混じり連刻木活字による「キリシタン版」と,「慶長勅版」,「伏見版」,「駿河版」などの漢字のみの漢文組版では,本としての性格が明確に分かれています。おそらく東アジアの一帯では,漢字・漢文が共通「言語」として機能していたのでしょう。使用文字やその組方から,読者対象によって異なる出版形態と組版に関する考え方の差異も知ることができます。いずれも立派な書物であり,組版の技術も
たいしたものです。
現在「組版ルール」が混迷しているような感がある日本語組版ですが,本来は組版に関する「職人」(プロ)の見識と技術がしっかり確立していたはずです。その背景を支えていたのが読者の「知性」でした。この両者がそろって,質の高い本作りが可能になると考えます。
MIT(マサチューセッツ工科大学)のノーム・チョムスキー教授が30年も前から発言しているように,日本語の漢字かな混じり文はすぐれた表記方法だと感じます。「水茎の跡うるはしき」書の世界のみならず,名詞と活用語の語幹部を黒味の強い漢字で表記,それ以外をかなで表す「活字」組版の特徴を活かすのは「組版ルール」そのものではなく,本や組版の背景にしっかりと存在する(はずの)読者の目であり,職人の意識でしょう。
Q: DTP黎明期にはフォント環境の貧しさもあって組版能力の低下を嘆く声が多く聞かれました。技術変化のたびにこのようなことが繰り返されているともいえますね(活版→写植→電算植字→電子組版→DTP)。文字の組版能力がだんだん下がっていると言う人もいますが、そう思われますか(印刷・出版・デザインとも)。
大西――文字組版レベルの低下があるか?
との問いかけには,はっきりと「イエス」です。残念ながら,大きく低下していると感じます。これを実感する部分として,まず以下をあげます。
1)活版からオフセットへの移行
2)写植印字(組版)での問題
3)(いわゆる)新書体の乱用
4)字送り値の独立設定
以上をやや細かく見ましょう。
活版からオフセットへの移行では,文字のマージナルゾーンゾーンがなくなりました。それ自体の問題ではなく,輪郭が不明確になった文字印刷に対し,その対応がじゅうぶんではなかった点が気になります。読む対象としてではなく,見かけ上の観点から書体選択を行った傾向があったことを,まず最初に認識したいものです。
つぎの写植の問題は,オペレータの問題でもありました。文字や組版,あるいは本そのものに熱意をもたないひとがこの分野に参加してきたような印象がぬぐえなかったのです。発注者がOKを出し,読者が受け入れたとすれば,それはそれでけっこうだったのでしょうが。
ファンシー書体ともいう新書体の乱用は,読めない本文組版の氾濫につながりました。これは書体の罪ではありません。そのような文字を求めた人間の問題です。現代の社会では,書体は選択しないかぎり世に出ないからです。
最後の字送りについても同じです。写植の機能からベタ以下の送り値で印字できますが,写植自体がツメ印字を求めていたわけではけっしてないのです。ただし誤解しないでください。わたし自身も文字を詰めることはあります。しかし先に述べたような漢字とかなとの黒味の問題を意識して詰めます。
ここで思い出すのは,二十数年前のある会合でのことです。わたしは1行中のハンパ処理の方法を述べていました。「活版では行末部のかな部分をわずかに割って調節するのが基本」というと,某「大家」のヤジが飛んだのです。「漢字部分を割れ。そのほうがページ全体が平均的な濃度になる!」と。
この方は,欧文組版と和文組版の本質的なちがいに気づいていなかったのでしょう。
ふり返ってみればこの数十年,多くの学校教師や指定する立場の人間が,自分たちがつかう日本語を,そしてその組版を真剣に考えないまま過ごしてきたように感じます。
Q:現在、組版について課題があるとすれば、どんなことですか。それぞれ出版、印刷、デザインの現場あるいは大西さんのお立場で。
大西――前項に関連していえば,いつの時代も日本語の組版レベルは悪くありません。ただし現代は,これまで本にしなかったものまでが出版の対象に多くなっています。そのため出版点数も組版の数も増え,相対的に平均的なレベルが低下したのではないでしょうか。
これ以外の課題は,1)DTPの問題,2)デザイナーの職能の問題,であると考えます。
後者については,デザイナーが書籍の「本文」組版にもっと参加する…これが課題だと感じます。ジャケットと表紙,そして本とびらだけしか編集者が発注しないのはなぜか?
と言い換えてもよいでしょう。じつはその理由が最大の問題なのです。
日本エディタースクールで行っている「書籍製作技能検定試験」にデザイナー諸氏がもっと挑戦してみるようになれば,状況も変わってくるでしょう。
Q:ひとことでは難しいと思いますが、いい組版と好ましくない組版の分かれめはどこなのでしょうか。
大西――読者がそれ自体になんの抵抗も感じない組版です。著者のメッセージを自然に取り込めるような。当然のこととして,本の内容によって組版は異なってきます。
Qインターネットに代表されるモニターベースのメディアが台頭するなかで、印刷メディアの文字表現はどうなると思われますか。組版も時代と共に変化するものなのでしょうか。
大西――活版からDTPまで,印刷版式のちがいを別にすれば,組版にそれほど大きな変化は今後しばらく起こらないのではないかと考えています。文字の大きさが変化したのちの,この数十年と同様に。
ただし今後,Web配信などが発展し,モニタ上で読む,あるいはプリントを自宅で行う部分が増加するとフォントなどには少なからぬ影響が出るでしょう。
Q:文字はそれぞれの国の文化、歴史を背負っている部分がある一方、日本語組版を海外のソフトメーカーに依存し、そのデフォルトが組版水準を示す現状をどう思われますか。今後の組版は、ソフトの高度化によってソフト任せの時代になるのでしょうか。
大西――DTP操作の目的,およびこれをだれが行うかの問題だと考えます。「海外の組版ソフトメーカーのデフォルトが組版水準を示す」とはおもいません。もし現状がそうなら,その程度でよしとする本は,それがその読者のニーズなのです。
DTPは,編集者やデザイナーがそのしごとを終えたとき,組版も完成しているのが本来の姿でしょう。そのさいの組版品質に満足できなければ,より勉強するか専門家に依頼するかになります。今後(Web配信等ではない)書店に並ぶ本は,より高い組版品質が必要となるはずです。そのときこそ組版品質を再考するよき機会となるでしょう。
かつて和文モノタイプの登場により,日本語組版の「ルール」に変化がありました。同様の機器やソフトからの制約は現在もあります。しかし出版社の「ハウスルール」や本の性格による望ましい組版のあり方も多様化するでしょう。心ある出版物が「ソフトまかせ」には当分ならないと考えます。
Q:印刷をはじめ出版・デザインを含めた、それぞれの分野での文字に関する教育訓練や知識としてはどのようなことが重要ですか。
大西――現在の「ルール」や「方法論」の背景を知ることにつきます。このルールや方法論は試行錯誤の結果であり,印字機器の制約の問題でもあり,経済情勢の波のなかから生まれた妥協点の産物でもあります。ルールを丸暗記するのではなく,その理由を知ることが将来の日本語文字組版の発展につながるように感じます。
(大西哲彦氏:編集者、日本エディタースクール講師)
【関連講座】
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