コメンタリー by 和久井孝太郎


デコンストラクションとは何か

99/07/19


 '99JAGAT会員大会が去る6月16日に開催された.そのプログラムの中で,株式会社ボストンコンサルティンググループ(BCG)のプロジェクトマネージャ椿進氏より,「デコンストラクション経営革命」と題した講演があった.
 今会員大会の総合テーマは,マネージメント・リノベーション(management renovation:経営改革),私も椿氏の講演を聴講したが,デジタル時代における経営改革に則した内容であった.

 私自身が興味を持ったのは,”デコンストラクション(de-construction)”とは何か?ということであった.インパクトのある言葉を準備して聴衆の注意を引きつける,講演者のねらいもそこにあるのだろううが,椿氏の説明によるとデコンストラクションとは,元々は哲学用語であり,日本語では”脱構築”と書く.その意味は,

 ●文章を吟味して定説となっている従来の解釈とは異なる意味を見いだすことであり,BCGの定義するデコンストラクションとは,
 ●事業構造を今までとは異なる視点で捉え直して新しい事業構造を作り出すことであるとのことであった.

 私はますますデコンストラクションのルーツは何か?が気になった.”脱構築”という言葉を本で読んだ不確かな記憶は残っていたが,どのような主旨であったか残念ながら講演当日は思い出せなかった.

 私の本棚にも少なからぬ冊数の哲学関連の本がある.まずは,今村仁司編:現代思想を読む辞典[講談社現代新書(1988)]で,“脱構築”を小当たりしてみることにした.この言葉の元祖は,フランスの哲学者ジャック・デリダ(1930年生まれ)であるらしい.
 同書PP415-416“脱構築”の解説では,{フランスの哲学者ジャック・デリダの用語.deconstructionはしばしば「解体」とも訳されて,「破壊」(destruction)と混同されがちである.それも一理ある.なぜならデリダはハイデガーが『存在と時間』で使ったDestruktionのフランス語訳としてdeconstructionをあえて採用したからである.デリダの解釈では,ハイデガーの「デストルクチオン」は「破壊」ではなく「脱構築」であった.では,形而上学的思考を単に「破壊する」のではなく「脱構築する」とはどういうことであろうか.デリダは次のように説明している.

 「哲学を<脱構築>するとは,歴史的由来をもって構造化されている哲学的諸概念を用いて最も忠実かつ内在的に仕事をしながら,他方では哲学では名づけることも記述することもできないある外部の視座にたって,この哲学的諸概念の歴史が,利益がらみの抑圧をすることによってみずから歴史たらしめたさいに隠蔽しあるいは排除してきたものは何か,それを見きわめることである」(デリダ『ポジシオン』)…

 …デリダの「外部の視座」は,勝手に立てられるのではなく,現存の体型の陰画の中のみに求められる.要するに,脱構築とは,古い建物の骨格をその内部からガタガタにゆさぶることであるから,場合によっては解体された建物の破片でゆさぶるものが傷つき押しつぶされる危険もある.この危険をあえて冒すことに現代的思考の前衛的企てがある.…}

 ここまで読み進んでいくうちに,私自身が以前に読んだ本のことがおぼろげながら心の内に浮かんできた.その本では,ギリシャ以来の西洋哲学・形而上学の伝統を批判するハイデガーやデリダらの考え方を,ずさんであると批判していたからである.

 藤沢令夫著:哲学の課題[岩波書店(1989)]の中で,{…近世以降の手近にある哲学の特定の傾向(例えば新カント派だとか,あるいはもっと大きく,哲学を中核としてもたらされた今日の西洋文明全般の弊害や行き詰まりだとか)を批判攻撃しつつ,攻撃するその問題把握のあり方をそのまま古代ギリシャまで遡って延長し,全体を「ギリシャ以来の西洋哲学ないし形而上学の伝統」という単一で連続した線へと単純化してこれを全否定する−“根本的に問い直す”と称して−という安直な習慣が,ハイデッガーによって哲学界の一部に根づよく植えつけられたように思われる.…

 …この「全伝統」をこれまで誰にも思いつかなかったような新規なやり方と呼称によって,総括し断罪する…そう思いたくなるほど,デリダの告発と断罪の仕方は奇抜そのものであった.ギリシャ以来今日に至るまで(ハイデッガーをはじめデリダと同陣営と思われる人々をも含めて),西洋の哲学・形而上学の伝統は「ロゴス中心主義」(logocentrisme)という大罪を犯してきたがゆえに,「脱構築」(deconstruction)されなければならない,とデリダは言う.

 ロゴス中心主義?−「ロゴス」とは言葉であり理論であり,そして何よりも,われわれが物ごとを筋立てて(カタ・ロゴン)考え,語り,書くことを可能にする「理(ことわり)」そのもののことにほかならず,それがなければいっさいの対話も言説も議論もありえないだろう.「ロゴス中心主義」が根本的誤りであるということは,そのようなものではある<ロゴス>の尊重自体がけしからんということなのか.

 そのとおり,とデリダは言うだろう.われわれの哲学も科学もすべての学問も,そのように理にかなった仕方で筋道立てて考え,語り,書くために,「真実」のことと「虚構」のことを区別し,「理解」することと「誤解」することを,「事実」と「見かけ」とを,「字義どおり」のことと「比喩的」なことを区別し,それらに現在/非在,内容/形式,中心的/周辺的,正常/異常,話す/書く,男/女,等などの区別を設けて,どの場合にもつねに,区別された二項のうち前者を優先視し,後者を貶め軽視する.これがロゴス中心主義の根本にあるやり方であるが,しかしほんとうは後者こそが優先的・基本的なのであって,前者はそれから派生した形態にすぎない.すなわち真実は虚構の派生的変形であり,理解は誤解の,事実は見かけの…(以下同様)一形態であって,後者(虚構,誤解,見かけ…)がまずあってこそ,始めてありうるものなのである.そしてロゴス中心主義の誤りの根本を衡いてまさにこのことを示すのが,「脱虚構」の作業にほかならないのである.−……}PP190-193

 まだまだ批判が続くが,興味を持たれた読者には原典を読まれることをお薦めする.
 批判は進歩の原動力である.筆者には,これらの哲学論争を評価する能力を持ち合わせていないが,“デコンストラクション”とは西洋文化の大革新を目指すデリダの意思表現と見えた.
 それでは,英語の辞書で“de-construction”にはどのような意味が採録されているだろうか.筆者が日頃使っている小型と中型の英和辞典にはこの言葉は採録されていなかったが,小学館ランダムハウス英和大辞典第2版では,

 ●{de-con-struc-tion→n.デコンストラクション,脱構築:主に文学研究に関して1960年代に起こった哲学的批判運動;実在を表すとされる言語の力に疑問を提示し,言葉は本性的に他の言葉を指示するだけである以上,テキストには確固とした指示的対応物がないと強調する[1973]}

 ●{de-con-struct→v.t. 1分解する;解剖する.2<テキストなどに>脱構築理論を応用する.[1973.DECONSTRUCTIONからの逆成と思われる]}
とあった.

 いずれにしても,専門特化の学問分野でのデコンストラクション論議と違って,経営分野,実社会でのデコンストラクトには困難と痛みが伴う.“デコンストラクション”経営革命が経営文化の大改革を目指すものである以上,自己批判を基本軸とする経営者自らの確固とした理念と意思がそこになければならない.
 今や,集団で未来予測をするような時代ではない.なぜならば,リアルワールドの伝統文化のデコンストラクトに,デジタルワールドの『自由』が大きく関わりはじめたからである.高度情報化社会にあっては,何よりも私たち一人一人が『自立と自律』の意思を固めることが緊急の課題だ.

 なお世界環境の変化については,いろいろなケースを想像してみる必要がある.例えば,米国のバブルがはじけた場合のシミュレーションなど当然必要である.


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