次に,JIS X 4051を超えて,一般論としての組版ルールについて。ここでの私の疑問は,「誰でも入手できて,理論的に構築された組版ルール」が,業界の統一的立場から成立しているのだろうか? ということなんです。例えば「可読性」という,組版の「目的」であろう性質についても,科学的・統計的データがどれほど取られているのか,私の勉強不足でいまだにわかっていませんので。
また,何を「読みやすい」かとする理論のほうも,書体や文字詰めなど,時代時代によって,権威ある会社や人物や一般論が「読みやすい」とする組みが変わっているような気がするんです。単なる権力の移動? とかも想像してしまうわけですが,でもまあそれぞれの団体や人びとが,一応の論理を持ってそれぞれの考える「読みやすさ」を打ち出した結果,文字組の流行が変わっているわけですよね。それらがそれぞれ,それなりに社会に受け入れられているように見えるのは何故なのか? 理論構築者の独断を押し付けているだけで,人は時代時代で流行した組みの「正しさ」の程度に応じて,正しくない部分の不便を押し付けられているんでしょうか? それだけではなく,可読性にはある程度の「慣れ」という要因も含まれるんじゃないかと,私は思っているんですが……。
例えば,これは書体の話なので厳密に組版の話と言えるかどうか自信はないんですが,最近,ボディ一杯にデザインされた書体を「読みやすい」として新聞や文庫本に採用する動きがありますよね。私自身は「かえって読みにくい」と感じているのですが,これが本当に読みやすいのか読みにくいのか,答えは時代と読み手によって変わるかもしれないと思えるフシもあって,大きな声で「読みにくい!」と言えない気がして黙っているんですけれど。
何故あのての書体で組まれた文章を私が「読みにくい」と感じるのかというと,ボディと字面とのアキ具合で字種を判別することが困難だからではないか,というのが私の推測です。「かな」「約物」のような,本来?ボディとのアキをたっぷり持っている文字で特に顕著なのではないかと。だから例えば「約物ツメ」の長文も読みにくい。それと,漢字であっても,ボディ一杯に平均化してデザインされた文字では,字面の一番外側の輪郭線の形状で字種を判別することが難しい。これまた,私が読みにくいと感じる理由なのではないかと考えています。
しかし一方で,このボディ一杯の書体を「読みやすい」とする人がたくさんいるわけですよね。何故と言うに,同じ文字サイズであっても字面が相対的に大きくなるから,細かい字画まで見やすく,ために字種の区別がしやすいという。また,字と字がくっついているということは行方向のつながりが強く出るということだから,行が追いやすく,意味が伝わりやすいという。
この違いは何なのか?というところで,私が推理したのが,読むスピードや読むメカニズムは人と慣れによって異なるのではないか,ということです。「可読性」を科学的に調査するのは非常に困難だし(つきつめれば内容の理解にまで話が及ぶわけですから),実際,新聞やディスプレイに限ったわずかな例を除き,可読性を調査した研究報告というのは寡聞にして知らないのですが,世の中にはどんな「可読性」理論があるものなんでしょうか?
プロの組み手・読み手の方には怒られるんでしょうけれど,どうも,「可読性」を一義に決定するのは難しいことだし,そこには時代性(慣れ)というものも含まれるんじゃないかという気がするんです。もっとも,「慣れ」をどのように客観的に測定・評価するのかという問題は残るんですが……。あ,もちろん,ヘボいアプリのデフォルトにもいつか慣れて読みやすくなる,なんて言う気は無いんですけれども。
この,「可読性」が一義に決定できるかどうかに対する疑念には,もうひとつ,自分なりのささやかな根拠があります。それが,読者にも「プロ」と「アマ」があるのが現状なのではないか,という私の認識です。つまり,「読みやすさ」は,相当の読書人だけを相手に理論構築してればいいんだろうか? という疑念が私にはあるわけなんです。というのも,どんなに読書量が少ない人でも,そこにはそれなりの「読むセオリー」(「慣れ」)があり,ある組版に対して読みやすさや読みにくさを感じるはずで,世の中の大多数はそういう「読みのアマ」なんではないかと……。
しかもそれが,読書量の多い人の読み方を単に遅くしたものなのかというと,速読の身体的メカニズムはどうやら遅く読むときとは異なるらしい,という調査結果が割と一般に認知されていたりもしますよね。読書量の多い人・読むのが早い人の読みのメカニズムを,すべての人のひな形として扱うことは,妥当なんでしょうか? もっとも,「読みのプロ」を冠して良いほどの読書量というのはどんなものかということ自体,不肖の私にはちょっと判断が難しいんですが。
私の愛読しているものの一つに,漫画家・夏目房之助のマンガ評論があります。なにが魅力的かというと,他の評論家のようにマンガのストーリー内容を単純な倫理観で是か非か評するのではなく,どうしてこのようなマンガが描かれたかを時代・社会背景や作者の環境から考察したり,マンガ表現の最重要項目であるはずの描線について分析的に考察したりと,客観的説得力をもった評論が展開されているからなんですけれども。彼は,マンガのコマ割りの文法が歴史的にどのように変遷してきたかということにも言及しています。それを見ると確かに,昔のマンガのコマ割りは,現代人には読めないと思えるんですよ。でも多分,当時の人には無理なく読めたんですね。そんなものを読んでいるから,「可読性」には時代性や慣れという要素も含まれるんじゃないか,なんて思ってしまうんでしょう。
それから,文字組みというのが常に「読まれる」ものとして期待されているのかどうか,ということに関しても,若干の疑念があります。例えばデザインレイアウトの一パーツとして捉えられている文字群は,読まれる際の機能性を至上命題としてよいのでしょうか。書体によっては明白に「レイアウト上の一パーツになったとき,均等なグレイとして見えるようにデザインした」とされているものが存在しますが,「読む」機能からみると,均等なグレイは果たして良いのかどうか。私としてはむしろ,不均等な黒みが読みのメカニズムを支えているんじゃないかと思っているものですから……。
読まれること以外の機能が最重要視される文字組み,というものは存在するのでしょうか。私自身はそのような考え方に素朴な反発を覚えるのですが,しかし実際上記のような意図をもってデザインされた書体は一定の評価を得ているようです。それに,悲しいかもしれないことに,雑誌やチラシなどの組版成果物に目を落とす人たちのどれだけが,文章を読みたいと欲しているのか。そう考えると,組版に要求される性能というのは,媒体によって異なる可能性もあるのでしょうか。もっとも,理想的な組版は,デザイン的な要請も満たしつつ,読みのメカニズムにとっても理想的なものになるのかもしれませんが。
この番外編の企画をうかがったとき,「滅多にないチャンス!」とばかりに,日頃疑問に思うことを書き連ねたため,整理されていない見苦しい文章になりましたこと,ご容赦下さい。思考のヒントなりと,いただければ幸いです。 敬具
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2002/07/02 00:00:00