アプリケーションでも、エンコード/デコードのようなアルゴリズムがはっきりしているプログラムは、OSのオマケとかフリーウェアの世界になっている。それ以外も今ではあらゆる分野にフリーウェアや安いシェアウェアはあり、機能的に商業版とひけをとらないものも少なくないが、エラー処理が弱かったり、動作環境によっては安定しないことがある。要するにユーザーの誤操作やいろいろな環境での動作チェックは非常に手間がかかるので、安いソフトではやりきれないのである。
1990年代の半ばではWebサーバにLinuxを使う人は稀であったのが、今日は多くなった理由は、多くの人がその動作検証やらドライバ類の対応に精力を注いだおかげである。たとえフリーウェアでも多くのエンジニアの献身的協力があれば使えるようになる。しかしLinuxといえども高度なアプリケーションソフトにはこの方法は当てはまらない。AdobeにLinux向けのソフトは出さないのかと詰め寄った人がいて、その時は動作チェックの指標となる環境がないので、やり難いという回答をAdobeはしていた。
DTPというアプリケーションは、アルゴリズムよりはユーザインタフェースの塊といえる。紙面をこう作ろうと人間が頭に描いていることを、プログラムを走らせるための設計データにするところがDTPの使い勝手のミソであるからだ。レイアウトや組版に関する設定項目が細かくあればよいというものではなく、組版結果はきめ細かくしたいが、単純に設定したいという矛盾をどう解決するかの問題である。
単純な設定とは、言葉で「こうあってほしい」を設定できることだが、それが具体的に何を指すかは、ユーザによって差がある。組版で平均点を考えればJISの組版方法のようなものとなるが、それ以上の細かい部分については汎用プログラムを作ることは突然難しくなる。それもアルゴリズムが難しいのではなく、どのような使われ方を基準にすべきかをユーザとの関わりの中から探るのが難しい。
ユーザはいろんなレベルの人がいて開発側の予期しないような設定をすることもあるので、なまじっか機能を増やすとユーザの混乱の元にもなり、間違った設定をなるべくさせないことも使い勝手の向上には必須である。込み入った日本語組版についてJISの組版方法のような組版知識の普及がみられないし、当然ながらそれらを仕様化したものもない点で開発コストがかかることが予測される。
だからDTPによる本格組版を今以上に使い勝手をよくする方法は、相当高額になっても買うとユーザが宣言するか、手弁当で共同で仕様を作るかになるだろう。その反面、JIS化した部分のような平均的な行組版部分だけなら、TeXなど欧米の組版がそうであるように、自分でカスタマイズできる人を対象にフリーウェアかオマケのようになっていく可能性もある。そうなると組版を含めたレイアウトの自動処理の開発は多く行われていくだろう。
テキスト&グラフィックス研究会会報 Text&Graphics 199号より
2003/02/27 00:00:00