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字形問題を、漢字の成り立ちと、書体デザインから考える

大修館書店の「しにか2003.4」で、「日本人にとっての漢字とは何か」という特集があった。そこで印象に残っているのは、「雰囲気」を出すためにわざわざ難しい漢字を使うことは若い作家でも行っていることと、文化人名などの固有名詞は正字でないと格好がつかないと思う人が大半であったことだ。こだわりの多い人名については、「しにか2003.7」で改めて、「日本人の名前と漢字」という特集が組まれた。こちらは「読み」の問題が半分くらいあって、異体字の話はそれほどなかった。よく言われる渡辺の辺が何種類使われているといったことは全然取り上げられていなかった。

身の回りに残る漢字文化については、時代物の看板、名所旧跡、文化財などは、それらより後からできた漢字制限や文字集合にはとらわれずに使いつづけられている。過去の表記を拭い去ることはできないものであるが、「通称」として今日の日常使用の活字文字で代用して表記されることも同時に多い。
過去の文化人や偉人の名前も同様である。その人のアイデンティティーを尊重するときは意識してオリジナルの表記に従う。たとえば本の表紙に著者名を記すときなどである。しかし書誌情報では今日の日常使用のフォントで代用して表記されることも行われていて、国会図書館でも今日の代表字で管理されている。

つまり以上の分野は、オリジナルと通称のフォント表記が共存するという二重性が認められているといえるのではないだろうか。作家の表現の世界では、馴染みの表記と異なって、やっと読めるとか独特の雰囲気が感じられるなど、ひっかかりのある表現が強調する目的で使われているのかもしれない。しかし読者にその字を書かせることを求めているわけではないので、点画の細かい議論はない。ここでは、そもそもの漢字の成り立ちを踏まえていれば、フォントのデザイン的な差は問題にされない。以上は「しにか」を眺めていて感じたことである。

一方、地方自治体の扱う地名人名などの異体字が面倒なのは、上記のようなフォントのデザイン的な表現の幅が認められず、オリジナルの手書きにフォントを合わせて欲しいという性格の漢字だからである。理由は、もともとその字形が使われていたのだから、それを再現して欲しいということだろうが、上記の時代物の看板、名所旧跡、文化財、文化人や偉人の名前など、利用回数が一般の人名よりも遥かに多い固有名詞ですら日常使用の通称表記で代用されていることと対照すると、なかなかもとの字形で押し通すことはできず、学校や職場ではJIS漢字で使われ、役所など管理上の必要性のあるところのみ外字が使われることになる。

JISなど文字集合規格のレパートリーを増やすことは外字問題のいくらかの解決になるかもしれないが、それでもカバーできないものは地名人名では後を絶たないだろう。なぜなら今問題にされているAdobe1-5あたりの文字になると、字種を増やしてもそれをフォントにする段階で書体デザインの基準に外れてしまう文字が多くあるからである。「3部首許容」という言い方がされるが、しんにゅう/しめすへん/しょくへんについては,活字的な正字と筆写体の形の差を区別せずに国語的には包括的に見る見方が行われてきたが、このような包括的な見方は随所に暗黙のうちにあり、それらの形を区別しようとすると書体デザインが成り立たなくなる。

梯子「高」は割と多い要求ではあるが、それは楷書の場合の標準であって、明朝体の基準とも言える康煕字典的な正字では「口」に整理されている。それは説文解字などの篆書において「口」になっているので、それに合わせたと考えられる。つまり楷書で梯子、明朝では口、というのは暗黙のデザインポリシーのようなものであり、書体のデザインの余地としてそういう伝統的な表現幅を認めなければフォント開発は成り立たないのではないかと思われる。

では、どのような暗黙のデザインポリシーが歴史的に形成されてきて、実際のフォントデザインではどのように字形を整理してきたのかが気になる。2003年7月9日(水)のフォント開発側からみた書体と字形では、長年フォントに関わってこられた専門家の方々を招いて話し合う予定である。活字・フォントの世界でのこの問題への対応経験は、きっとこれからの字形問題の収拾に寄与すると思われる。

関連情報 : 書体を踏まえないで、字形の話はできない

2003/07/04 00:00:00


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