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現在から未来への掛け橋

PAGE2006の2月1日の基調講演の報告、デジタルメディアの文化への変節点では触れられなかったが、ディスカッションで中途半端になった問題に、クリエータの人材育成の話があった。人を輩出する環境が昔のようではない。メディアのビジネスの枠組みが変わっているから、必ずしも先輩がうまく役割を果たせない。インターネットやメールを駆使すれば安直に原稿が書ける。その前にコンテンツのどういう所に価値を置くのか。いろいろ面白い視点があったが、まとまらなかった。当日のディスカッションとしてはいろいろ聞き出せたことで、それはそれでよかったとして、振り返って考えるとボイジャーの萩野氏の宿題にヒントがあるように思えた。

ボイジャーは電子出版の「ラストワンマイル」としてデバイス・ビューワの問題に焦点をあてられていたが、その段階はもう出版社の意図がどうこうではなくて、読者の必要性にもっともふさわしいようにデバイスの選択やビューアの設定がされるべき段階で、いわば「電子読書」という世界が現れつつあるのだなと感じた。そもそもパソコンもWEBブラウザもそれと似た利用者によるカスタム化を可能にするものであるが、本を読む文化に焦点を合わせれば「電子読書」になる。

実はマイクロソフトのeBookはそのようなコンセプトがあって、本を作って人に見せるというのとは別に、自由に本のようなスタイルにして見るものでもあった。これはマイクロソフトとしてはWordで書いたものをPowerPointにするようなノリで設計したので、かえって出版社の側には採用されにくかったと思っている。ボイジャーの宿題に話を戻すと、出版文化とは読書文化に支えられているものであって、実は本質は読書の方に重心があって、そこにビジネスを見つけ出すのが出版かもしれないと考えてみたらどうだろうか。

つまり今日では、たとえ日本中の新刊の書店が1ヶ月一斉に閉店しても読書は続くだろう。かえって今まで読みそびれていた本を開くチャンスとなるかもしれない。1年閉店してもブックオフも図書館もあるから読書は続くだろう。図書館がもっと活用されれば本の良し悪しはもっとはっきりしてくるかもしれない。また読者は出版される事を待っているのではなく、読者が「電子読書」の装置を使って本を再編集して市販されない本を作り上げたり交換することがはやるかもしれない。

napstarのようなファイル交換が出版界に持ち込まれるのは、出版界の恐怖するところだ。それはヒット作の山の上のほうが削られてしまうと言う面で経済的打撃が大きいからで、取引上の秩序は必要だろうが、読者側からするとお互いに紹介し勧めあうということは、非常に意味のあることであるし、多くの人が出版物にもっとコミットしてもらうことで、出版需要の土台を確かにする意味ももっている。なにがいいたいかというと、送り手と読み手の気持ちが重なり合う場というのが紙の出版から電子メディアの方にシフトすることに対して、何も手を打たないと、音楽がCDからダウンロードにシフトするのと同じようなことになってしまうような気がする。

過去に、Blogで1億総作家時代、とかいう記事見出しが時々あったが、それは極論としても、個人がパブリックに登場しやすい土壌は出現した。KNN神田敏晶氏のような個人ジャーナリストも活躍している。とはいってもBlogだけで何でもできるのではなく、どこかでマスコミに取り上げてもらうような関係は続くだろう。しかしマスコミは次々目先を変えていくから、マスコミが「姉歯・ヒューザー」を忘れさせようとしても、しつこくBlogで書き続け、それが意味あるものなら消しきれずに残ってしまう、というようなことになるだろう。

デジタルメディアの普及により、幾分かはマスコミの言論支配が弱まり、アマチュアとプロの境界がぼやけるとか入り組むようになる。このカオスな状態が個人の自発的なコミットメントを促し、そこから次世代クリエータが生まれることになるだろう。デジタル音楽の面白さはPlaylistというDJ的な機能を個人が楽しみやすくなったものであるように、「電子読書」はうまくすると読者側に編集センスをもたせることになる。著作権切れのテキストはそのままでは楽しみずらい面もあり、それを楽しめるようにする人たちも生まれてくるだろう。フリーペーパーなら読者参加を試みるところもでてくるだろう。このような新たな土壌に次の出版ビジネスのヒントが潜んでいるように思える。

2006/02/03 00:00:00


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