虫眼鏡で見る印刷史と、遠眼鏡で見るメディア
掲載日: 2010年01月03日
印刷原点回帰の旅 ―(番外 1)印刷とメディア―
従来からの印刷史というのは、だいたい印刷発明史が多く、それは携わった人の側に立った価値観でものを見ている。しかし印刷は印刷術といわれていたように「方法」であるので、「方法」としていろいろな点で優れたものが新たに出てくると、旧来のチャンピオンに取って代わるというのが技術史である。それは今日でも設備投資をする時には、いろんなシミュレーションをして最適な組み合わせで生産プロセスを組もうとする各会社の意向の総和として、時代とともに生産手段の主役が入れ替わっていくのと同じである。
ビジネスに使う新技術の選択というのは期待や思い入れよりも、その時のビジネス環境における長所短所をトレードオフした結果に左右されるのであって、技術の新規性や将来性によるものではない。例えば戦国時代から江戸初期には日本にも活版印刷が入ってきたものの、江戸の庶民文化が花咲く中では活版は滅んで木版印刷が興隆した。印刷技術史だけを考えていると、こういった技術の逆行を不思議だと思ってしまうが、商業出版ビジネスにおける「トレードオフ」という考えをすればわかりやすい。技術の発明と普及は別なのである。
出版には最初に版を作る仕事があり、多部数刷る仕事があり、販売する仕事があり、こういったバリューチェーン全体でトレードオフが考えられたはずである。何々草子とか浮世絵などではロングランで何十万部売れたものもあるが、当時の印刷能力は低く、また商品の流通機構を考えても、短期間に多部数を出版するわけにはいかず、版を置いておいて重版を繰り返すようなビジネスであっただろう。版を置いておくとなると膨大な活字のストックが必要になり、活字の生産能力が高くて低コストに活字が供給されていなければ成り立たない。また活字があっても長期の販売を見越して刷り溜めをするには当時の紙代は高すぎたので、本の流通量に合わせて紙を調達する方が現実的であったはずだ。結果として小ロットの印刷を繰り返すためには、版の方法は在版が扱いやすくてコストが安い木版が出版には有利となった。
上記のことはグーテンベルグにもあてはまり、いわゆる42行聖書という1200ページほどもあるものを200部弱印刷しただけでは、活字を揃えたコストには見合わないであろうし、活字を組んだ1200ページ分の版を置いておいて重版することも大変困難に思える。文字数の多い漢字の活字であればなおさらのことで、活字や紙の大量生産が背景になければ印刷の大量生産もなかったのである。だから活字開発に誰が一番乗りをしたのか、というのは印刷技術史を虫眼鏡で調べるような研究であって、印刷物がメディアとしてどのように機能したのかについては、遠眼鏡で周囲の状況も合わせて勘案しなければわからないのである。
メディアを考えるには作り手の視点ではなく、情報を送る側と受ける側の関係がどうなるのかという視点が必要になる。よく情報伝達とかコミュニケーションと簡単に言い切ってしまうことがあるが、情報を多量に発信したからといってコミュニケーションが成立するわけではない。もしそうならspamメールは非常に有効なメディアである。印刷もspamのようなものであってはメディアの価値は低い。情報伝達は送受双方のキャッチボールのような関係がなければ成り立たない。
情報伝達と「学習」はほぼ同じ意味であり、人の中で反復をするうちに出来上がっていくようなものである。難しいことを勉強しようとすると、似た本を何度も読むことになる。一つの本についていえば一度だけ読まれるだけかもしれないが、そこに含まれるコンテンツの単位で考えると、反復していることになる。エンタテイメントであっても反復されることに意味がある。幼児が何度も同じ絵本の読み聞かせを求めることはそうであるし、TV番組でも出演がしゃべった内容を字幕スーパーで出したり、野球放送を見た人が深夜にプロ野球ニュースを見て翌朝はスポーツ紙を買うなども反復である。人は情報の反復から生じる共感を求めているのであって、一度きりの一方的な情報伝達はなかなか受け入れられない。
つまりメディアは「モノ」性で捉えるものではなく、知るとか感じるという共感を、個人の中であったり、また集団の共有としてであったり、生み出す仕掛けなのである。そのためにコンテンツとは別に様式やレトリックが重要な意味をもつ。
それは印刷などの物理メディアが存在する前のオーラルの時代からあるものだが、物理メディアの登場によってエスカレートしていって、しだいに大集団を巻き込み、国家の形成や国家間の戦争、ひいては世界大戦へと進むところにも、この「共感」の仕掛けはかかわっている。
今インターネットの時代になって「共感」の仕掛けは「炎上」を作り出したりもするが、大集団化という点ではEUに貢献しているし、世界規模で共感を生み出すことも始まっている。いわゆるメディアの多様化という状況は、一つの情報伝達手段で情報を発信したつもり、というようなコミュニケーションのデザインは意味がなくなって、人と人との間の共振状態をどう誘発するか、あるいはどこへ誘導するかという設計が必要になる。そこで使う要素として、個々のメディアが担っている「共感」に着目する必要があるのだ。
(この項は、まだ続きますが、メディア論は一端中断し、印刷とメディアの接点のところに論を移します。)