JAGAT Japan Association of Graphic arts Technology


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印刷がたどりついたところ

掲載日: 2010年01月17日

印刷原点回帰の旅 ―最終回 文明と文化の相克を越えて―
キーワード:機械化 ラッダイト運動 物質文明 ウィリアム・モリス 企画デザイン 生活メディア 人間工学

この「印刷原点回帰の旅 」では、印刷を振り返って、文字、紙、本などがどのように生まれ、印刷がどう起こって発展してきたか、ということについて述べてきた。印刷はメディアの先輩として、人間の歴史とほぼ並行して発生・成長してきたのであり、科学の発達が印刷を変え、印刷が人のリテラシーを広げ、人間社会と印刷メディアは関与しあいながら、お互いを高めあってきた。そんな中で、印刷メディアがたどりついた場所とはどこだったのか、そして今後どこへいくのだろうか。

今日のような印刷メディアの発展は、一言でいうと機械化がもたらしたものであった。グーテンベルク、産業革命といった機械化により、印刷物の量を圧倒的に増やしたのだが、機械化される前までは、西欧では聖書をカリグラファーが一文字一文字丁寧に写本して彩色までしていた。多少の書き間違いはあったかもしれないが、プロがプロの技で時間をかけて作るのである。その聖書が美しくきれいなものであったことは、想像にたやすい。グーテンベルクの聖書も手で装飾はされたものの、当時の写本には見劣りがする。

機械化には必ず制約条件があり、人が一つひとつ作る品質にはとても太刀打ちできるものではないのは、産業革命時のほぼ全産業で起こったことである。機械化が進む毛織物の手工業者など機械化によって仕事を失った者は、自身の熟練の優位性を訴え、機械や工場を打ち壊すラッダイト運動を起こしたが、社会としては物質的な豊かさを求める波に押さえ込まれた。かつての職人は労働者となり、手仕事の喜びや美しさや誇りも失われてしまった。

ウィリアム・モリスは中世に憧れて、美しいインテリア製品や美しい書籍を作り出し、生活と芸術を一致させようとするデザイン思想とその実践(アーツ・アンド・クラフツ運動)は各国に大きな影響を与え、20世紀のモダンデザインの源流にもなった。モリスはケルムスコットプレスを設立し、新しい印刷を使いながらも美しい装丁の書物を出版し、今日でも最も高く評価されるような作品を残している。モリスは社会主義の活動も行うが、機械化が進む社会で大量印刷が加速させた物質文明に抗することはできなかった。ジャーナリズムが発達し海綿が水を吸うように新しい文明の情報が広がっていく時代だったからである。

以上だけを見ると物質文明が伝統文化を壊したかのように思えるかもしれないが、結局時代が進むと、印刷は文字だけでなく絵ものせたい、カラー化したい、写真をのせたい、綺麗に見せたい等など、文化的な充実の欲望が増していった。印刷の技術革新は、今度はそういった要望に一つひとつ応えていった。印刷の機械化で一時期失われた手作業の品質も、科学技術によって取り戻す方法が開発されてきたからである。モリスの考えのとうりであったかどうかは分からないが、印刷の企画デザインというのは非常に重視される時代になったのである。

さらに「印刷がかいくぐってきた文明・文化」の図で、印刷が大衆を巻き込んだ生活メディアに到達したことを書いたが、身の回りにあるすべてのものが印刷の対象になるほど、今日では印刷できないものはほとんどないまでになった。20世紀の後半になると印刷は生活を彩る質と量を兼ね備え、例えば木目や工芸的な質感のインテリアやファッションのように、生活環境を演出するようにもなった。

もう一つ大きく発展したのは、表現技術であろう。例えば、どんな本が親しまれるか考えてみてもらいたい。タイトルがわかりやすいもの、装丁が綺麗なもの、持ち運ぶのであれば大きさや軽さ、年配ならば文字の大きさ、文章のわかりやすさや面白さなど、人の属性によって、また使い方によって選ぶ本はそれぞれ違うであろう。グーテンベルクの時代には、とても持ち運べない大きな本しかなかったが、その後ヨーロッパ各地に広がるとともに様々な工夫がされて、ポケットサイズまでいろいろなタイプの本ができた。人間が本に接することが増えるにつれて、より使いやすくて心地いい形を生んできたという歴史がある。

「よい印刷物とは」という問いはいつもあり、いろいろな研究がされた。例えば「眼精疲労の原因は読む本に問題があるのでは」と仮説をたて、目に負担のない組版・印刷を見つけようとする実験もあったが、ある特定の文字の形や大きさなどに、眼精疲労の対策は見つけられなかった。読みやすさはその人が何に馴れ親しんできたかによるところがある。だから科学的に何が良くて何が悪いと簡単に結論づけられない。しかし、長い長い時間をかけて人間が自らの生活の中で、心地よい本の形を自らが選んで来たということなのだ。

言い換えると、今の時点で紙の印刷の方が電子ディスプレイよりも見やすいとしても、その原因は紙かディスプレイかによるのではなく、背負っている歴史の深浅によるのである。印刷における表現の進展は、結果論としては人間工学的に優れたものが生き残るように淘汰・進化してきたということになる。ポケットブックは洋の東西を問わず、片手の手のひらに乗る大きさで、明視の距離で見やすい文字の大きさになる。時代が下るに従って照明が明るくなれば文字は小さくなる、など人間工学が問題にされるより以前から印刷は人間工学を追求していたともいえ、少なくとも紙の上においては到達すべきところまで来たのが20世紀末である。

以上、印刷史から分かることは、社会や環境が変わる時にはメディアも変わることと、メディアは物質的な要求と文化的な要求を同時に満たす方向に進むということである。今日の印刷には、物の製造という意味での印刷と、コンテンツの表現としての印刷と、情報サービスとしての印刷、という3つの意味がある。20世紀までの印刷が遣り残したこと、そのうち印刷以外のメディアが担うこと、印刷でしかできないこと、などを考えてみよう。印刷の起こりから今日までの変遷を何度もアップダウンすると、その見分けができるようになるのではないか。

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