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本物の写しとしての印刷

掲載日: 2009年12月03日

印刷原点回帰の旅 ―(4)最初の印刷―
キーワード: 複製技術 拓本 真正性 印 権威

「印刷」、それが何か理解できない人はいないだろう。一般的には「印刷」とは、文字や絵などを版にインキをつけて記録媒体に再現することだが、一言でいえば複製技術のことである。雑誌や本・チラシなどの印刷物を目にしない日はないように、私たちの生活の中には印刷メディアは溢れている。

江戸時代、木版では1日で2,000枚程度の印刷できたというが、現代の印刷機では1分で2,000枚の印刷が可能だ。1日8時間印刷するとしたら、単純計算で480倍。それぐらい印刷技術は格段に進歩してきたし、印刷文化も発展してきたということだ。

印刷の初めは、中国の「拓本」とされている。始まりは定かではないが、殷(紀元前17世紀~紀元前1046年)の時代にできたとされている。魚拓なら一度は見たことがあるのではないだろうか。これは魚だが、「拓本」は石碑や青銅器に紙や布を被せ、墨を含ませた道具で上から打ち、そこに書かれている文字・「金石文」の凹凸を写し取ったものだ。魚拓は釣った魚の大きさを記録するために用いられるものだが、拓本の作られた理由は何なのだろうか。大きな石碑や形の複雑な青銅器に文字を刻むのも、また文字を写し取るのも、そんなに簡単な作業ではなかったはずだ。が、そうしてまで拓本は頻繁に作られた。その理由は、決して鑑賞や書の手本のためだけではなかった。

かつて、秦の始皇帝以来、歴代皇帝が遊んだ温泉があり、唐の太宗はここに湯泉宮を設け、さらに648年に自筆の「温泉銘」の石碑を残した。この碑は早く逸したらしく、宋時代の文献にその存在が記されていたのみだった。ところが、1908年フランスのペリオにより発見された敦煌文書の中から、この「温泉銘」の拓本が見つかったことで、この碑の実在が確認された。見つかった拓本は、剪装(せんそう)巻子本という、紙をコンパクトな大きさに切って作られた巻物の形をとっていた。そして、その巻末には653年と記されていたという。このように「温泉銘」碑をはじめとする多くの金石文は、皇帝や神官のような威厳や権威をもった人間によって刻まれることが多かった。また、敦煌で発見されたこの拓本は、碑が作られてからわずか5年後には、剪装巻子本という流通しやすい形に加工され、西の果て・敦煌にまで伝えられるほど珍重されていた。

これらのことから、皇帝は自らの権威を保つために青銅器や石などの手を加えられにくい素材に自筆を残したと考えられるし、本物の複製である拓本も皇帝自身と同様に権威付けされていたと考えられる。逆に言えば、皇帝の権威や正統性を伝えるため、最初の印刷である拓本は出来たことになる。唐の書家や皇帝の筆を元にした石碑の拓本は今日までも書道の手本であるように権威を保っている。

木版印刷の時代になっても、印刷物はそのオーソリティを維持し続ける。皇帝は、歴史書の編纂を命じるようになっていくが、歴史書は竹簡や紙に書かれているうえに、分量的にも拓本をとりにくい。そのため、次第に歴史書の内容をそのまま木版にし、印刷することによって複製が作られるようになっていった。そもそも中国には印鑑文化があったため、木や石に彫られた印・印鑑が本人の証拠と扱われたのと同様に、木に皇帝が作成を命じた国の歴史書である正史を彫った木版印刷物も、本当に正しいもの、つまり真正性をもつものと受け入れられていく結果となる。さらに、秦の時代の焚書坑儒を免れた古典が、のちに木版印刷によって復元されたことも、印刷物の真正性を高め、格式付ける大きな要因となったと言えよう。この流れは現代にもあり、紙幣、有価証券、パスポートなどの印刷物は、真正性をもっていると言える顕著な例だ。

歴史を振り返ってみると、皇帝の金石文から拓本へ、印と重ね合わせて木版印刷へ、という流れがあり、作られた背景から印刷物は、本来は複製であるにも関わらず、版本や写本の由来する原典・原文のような「真正性」と「格式」をもつものとして、歩み始めることとなったのである。そしてこの権威はグーテンベルクの発明まで、長い間変わることなく印刷物が維持した「様式」だった。

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