JAGAT Japan Association of Graphic arts Technology


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人間の感性に訴えるメディア

掲載日: 2009年12月23日

印刷原点回帰の旅 ―(7)写真の発明―
キーワード: ルネサンス 写実 透視図法 カメラ 感光剤 定着 乾版 フィルム

今回は写真の起こりについて見てみよう。印刷とは一見関係ないようにも思えるが、現在の印刷物のほぼ全てに写真や絵が含まれるように、印刷物にとっては重要なコンテンツと言える。

ルネサンス以降、西欧はリアリズムの時代を迎える。というのもルネサンスが、教会支配のような神秘的・非科学的なものから脱し、科学的方向へ世界を導くきっかけを与えたからだ。当時発明された活版による印刷物も、最初は金属活字による文字のみだったが、色や模様が後から手で付け加えられたり、木版による挿絵が入れられたりするようになってくる。このように印刷は、情報の伝播という印刷物がもつ特性をより高めるために、見やすさやわかりやすさが追求される方向で進化していった。

ルネサンス以降の美術は、現実をそのまま表現することを目指す。そして、そこにある風景をそのまま映し出したかのような写実主義が台頭する。レンブラントは、今までは描かれることのなかった陰影を光を利用して表現したし、フェルメールはカンバスに鋲を打ち込みそこから糸を引いて、正確な透視図法を用いたといわれている。写実的な絵画などが増えるにつれ、眼に見えるものをそのまま取り出したいという人間の欲求は更に高まり、写真の発明へとつながっていったのである。

写真を発明した人間を定義することは難しいが、そもそも自然界には像を投影する現象があり、これは古くから知られているものだった。今年の6月の皆既日食の時、木漏れ日から地面に映し出される太陽の像も日食された形になるという話を、テレビでみた人はいないだろうか。これが、小さな穴からの暗い場所へ向けて光が通ると、暗い側で像が結ばれるというピンホール現象である。これを利用した最初の投影装置をカメラ・オブスクラというが、現在の写真機をカメラと呼ぶのはこれに由来する。カメラ・オブクスラは10世紀ごろにはイスラム圏で既に開発されていたが、西欧ではルネサンスあたりから絵の素描を書くために使われ始めた。ダヴィンチやフェルメールは、このカメラを使って絵を描いた画家としても有名である。しかし、これはあくまで像の投影装置で、像を定着させるものではなかった。

最初に像の物質への定着に成功したのは、ニエプスというフランスの発明家である。彼は、カメラ・オブスクラがつくる光の像を平面状の物質の上に映し、光によって物質に化学変化を起こさせ版を作ることはできないかと考えた。アスファルトの一種を紙に塗り、その上に絵を置いて光を当てると、絵の書かれていない部分のみが固まるという方法で像の定着に成功するが、初期の実験では定着した像はすぐに消え去ってしまう。1824年には感光剤を用いてそれを改良したが、これは露出時間が8時間以上という実用的なものではなかった。しかし、ここからはアっという間に技法は発展していく。1839年ダゲールが銀メッキの銅板などを感光材料として用いて定着に成功し、1841年タルボットがネガポジ法で写真の複製を可能にし、1851年アーチャーが湿版を発明して露出時間を短くし、1871年マドックスが乾版を発明したことで感光材料が工業製品化し、1884年にイーストマンが感光材料をガラスから紙にしてロールフィルム化する。そう、発明からフィルム化まで、たった半世紀のうちに進化したのだ。それほど世界中の人間にとって、眼に写る像をそのまま残せる写真は魅力的なものだったし、文字を読めない人にも情報が一目で理解できる圧倒的なメディアだから、これほどまで急速に成長し大衆化してきたのだといえる。

写真技法の発展と同時に、当時の西欧では「光とは何か」「色は何でできているのか」といった科学的な研究や発見もあり、写真のカラー化にもつながっていく。そしてより人間の感性に訴えるメディアとして、写真は成長していく。人間は、その発展の歴史において文字・本を発明する中で、論理的に思考する理性を育んできた。印刷は、理性を司る活字というメディアだけでなく、感性をかき立てる写真というメディアを得たことで、より広範な情報の伝播という役割を担うことになったのである。

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