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[若手印刷人 リレーエッセイ] 弊社の社是にあるように、互いに助け合い、人格の向上と技術の練磨につとめ、社会へ貢献し幸せを築く会社を社員の皆と共に創りあげてきたいと思います。
創業者の祖父は戦後、農地開放により、かなりの土地を失いました。残っていた土地での農業ではとても生活が厳しく、商売を始める決心をし、1964年(昭和39年)10月、現住所の岐阜県羽島郡岐南町に軽オフセットの印刷工場を建て杉江電子印刷を創業したそうです。
その後、祖父は1978年(昭和53年)に他界し、翌年の1979年(昭和54年)2月に父が、(株)杉江美術印刷と法人組織を設立しました。私は物心がついたころから印刷機器の音を聞き、インクの匂いがする中、社員の皆さんに囲まれ育ちました。時には製版室のライトテーブルでフィルムのピンホールをオペークで修正したり、インクを錬ったりと遊びがてらやったものです。私は、関東の大学を卒業後、都内の印刷会社に就職し、製本、製版、営業を経験させてもらい約7年間勤務後、岐阜へ戻り杉江美術印刷へ入社しました。
地場産業が低迷している中、東京のお客様の計らいもあり2006年(平成18年)9月に東京営業所を開設し、私が最初の2年間を出向することになりました。
東京では販促ツールとしての印刷物を全国規模で取り扱い、今まで関わったことのない仕様の製品、ロットの多さ、製品に対する提案等を求められ、更に良品質の製品をスピーディに対応し、東京から手配するため岐阜本社と協力会社のそれぞれとうまく連携させなければなりませんでした。
全てのことが初めてで、とまどい失敗もしましたが、この2年間は私にとって本当に良い経験をさせてもらいました。平成10年2月には東京営業所を2人体制にし、今まで以上に営業活動に力を入れ、その年の10月には、営業所の強化と組織を確立するため私がもう一度出向し、東京事情を把握しながら情報収集とその中から正しい情報を判断し、決断してどんな組織形態にするかを自分自身のビジョンで創っていきます。
弊社はこれといって飛び抜けた技術はないのですが、お客様と協力会社との強い信頼関係をつくり、ここまできました。その信頼関係を更に強くし、新しい企画商品を提案していくと同時に、売り上げを伸ばしていきたいです。
弊社は大きく分けて経理部、営業部、製版部、印刷部に分かれますが、部署ごとにコミュニケーションをとることが少なく、それによって報告や連絡の遅れ等でミスが起きたり、能率が悪かったりすることがありました。要は、どの会社でも当たり前にある『報・連・相』ができていなかったのです。
このようなことを含め、これから中心となる若い社員同士が同じ方向に向かって会社を盛り上げて行きたいという思いから、月に1回コミュニケーションの場を設けました。
その場では、こんな会社にしたい、会社の良い所や悪い所、部署ごとの問題点を出したり、新しい企画、提案のアイディアを皆で持ち寄ったりしています。時には笑いの出るような会話もあます。
ここで意見として出た、地域清掃(会社周辺地域)と、社内清掃(年末大掃除なみ)を月に1回の会社行事として行っています。まだまだ、足りないことが多いので、このミーティングで一つひとつ問題を解決していくためにも続けていきたいと思います。
弊社の社是にあるように、互いに助け合い、人格の向上と技術の練磨につとめ、社会へ貢献し幸せを築く会社を社員の皆と共に創りあげてきたいと思います。
最後に、災害によって被災された皆様、心よりお見舞い申し上げます。