本記事は、アーカイブに保存されている過去の記事です。最新の情報は、公益社団法人日本印刷技術協会(JAGAT)サイトをご確認ください。
メディアというものは言うまでもなく、公共性の高いものであり、高い公益性を発揮しうるものである。公共性とは、公衆・不特定多数に向けて広く情報を配信する器であり、公益性とはその器を通してあまねく広く社会を動かす影響力を持ちうる中身を扱うことにある。
一方で、インターネットの社会的普及は公共性・公益性を行使しうる条件を、世界のすべての人々に対して平等に受け渡した。その結果、今後既存のメディア産業が産み出すメディア、コンテンツはより高度なプロフェッショナル性を求められていくことになるだろう。インターネットを経由してやり取りされるアマチュアメディア、パーソナルメディア、さらにそこから生じたプロメディアも、より発展・成熟していくだろう。
印刷業は、この両者をともに扱い領域とする事業、として進んでいくのだろうが、そうであればあるほど自身が「公共性・公益性」の高いメディア制作・表現の一翼を担っている、という事実により一層自覚的に向き合うことが必要であり、個人情報の管理、環境への配慮といった既に顕在化している社会的取り組みへの需要を超えた、「哲学(フィロソフィー)」の確立を意味するのだろう。それは会社の誇り、ひいては事業の成長・拡大にいずれ結実していくように思える。しかしこの「哲学」は難解な学問的なものとは違うはずなのだが、日本の企業経営でよく語られる、経営には社会が求めるものを継続的に提供していくことが必要で、事業が成り立っているということはそれが果たされている証明なのだとする、利潤追求のある種の免罪符的な考え方に依拠していては、この「哲学」を掴むことはできないだろう。
その「哲学」のためには、まず自社にとっての自己実現とは何か、を改めて考えてみよう。利潤の追求を通して何をもたらしたいのか。事業の展開を通して何をもたらしたいのか。それは自社の社員を豊かにすることなのか、あるいは株主、自分の家族を潤すことなのか、それとも顧客の喜ぶ顔を見たいためなのか。そのためにどのような手法を自身の意思で選択していくのか。そしてそれが公共・公益の目的と合致するのか。
例えば、車のまったく通らないような深夜の横断歩道で信号が赤の場合、あなたは青色に変わるまでじっと待ち続けるのか。そのときほかに何人もいて、当初は青色に変わるのを待っているつもりであったのが、他の人が渡りはじめるのを見て、どう考えるか。子供に躾ながら青に変わるのを待つ親子が横にいるのに気づいたとき、あなたはどう行動するのか。それらの答えと、何故そうなのかを考えて問うていくうちに、その考え、問いはやがて「哲学」となっていく。
例えば、駅の改札での場面である。電車が到着し、大勢の人間が改札から出てくる。合理的な動線が敷かれておらず、サインもはっきりしない状況で、あなたは降車客の動線に沿って歩いているものの、全体はバラバラの無秩序な形で外に向け動いている。しかも、ほとんどが乗車客の動線を動いている。そこに一人、乗車客が降車客の動線を通ってあなたの対面から迫ってくる。この乗車客は、正しい動線を知っているがそこが通れないほど混雑しているため、やむなく逆側を歩いているかもしれない。そもそも正しい動線を無視しているかもしれない。しかもそこは、動線もサインもはっきりしない空間である。あなたは一日の疲れでへとへとの中、このようなシチュエーションに遭遇し、前から来る乗車客にどう対応するのか。同時に、この集団に向き合った相手はどう感じているのか。
集団のそれぞれは個である。その個としてのあなたは、一人の乗車客と相対したとき「1対1の関係意識」で相手を邪魔だと感覚するかもしれない。しかしその個は、望むと望まざるとに関わらず集団の一員となっており、その前提の中で、自分の行動、動きが「社会秩序の生成」「公共の秩序のデザイン」に向けた自律型の行動になっているのかどうか、自覚的であらねばならないのである。それがない限りどんなに単発的・偶発的な集団行動であっても、この状況はアナーキーな暴動空間とならざるを得ないのだ。
「公共性・公益性」の高いメディアを担うための哲学とは、これらに見解を持てるようになることでもある。もともとそのようになっているから、それが正しいとされているから、みんながそう言うから、ということを行動の原理にすることとは違う。そして上記のような公共の秩序、秩序に美学をもたらす哲学は、10人のうち10人がつきつめれば同じ行動に帰結するという答えをもたらすはずなのである。別の誰かに押し着せられたのでなく、宇宙・自然の律と同じように、ごくごくナチュラルな矛盾のないひとつの答えに行き着くのである。そして、そのような「公共性・公益性」の哲学に則って行動を形成し、行動を律していく力、その力を「使命感」と呼ぶ。だが、この「使命感」を維持することは非常に疲れるものだ。そこではどんな心的、個的事情も介在させられないからである。だから「疲れているときこそ、背筋を伸ばせ!」という合言葉が、使命感を共有するもの同士で囁かれるのだろう。
印刷業は公共性の高い業である。公共性の哲学の下での公益的行動。それに基く利潤の追求。そのようなビジネスの仕組みを印刷業が「範」となり作り上げることは、まったくありうるべきことなのである。
※ 社団法人という公益法人であるJAGATでは、公益法人の制度改革への対応が必要ということとは別に、この21世紀社会の中で求められる「公益性」とは何か、果たすべき「公益性」とは何か、それを達成するための条件・手法とは何かということと、今、真剣に向き合い始めています。ぜひ皆様にもご一考いただけると幸いです。