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『和魂洋才』の再構築が必要である

中国や韓国との異文化コミュニケーションが中心であった徳川時代までの日本では 『和魂漢才』。欧米との異文化コミュニケーションが重要な課題となった明治維新以降の日本では、自覚する・しないに関わらず『和魂洋才』的に生活し活動してきました。

1]『和魂洋才』とは何か?

Wikipedia では

和魂洋才(わこんようさい)とは、日本古来の精神世界を大切にしつつ西洋の技術を受け入れ、両者を調和させ発展させていくという意味の言葉である

と書かれています。なお、『和魂洋才』以前の時代の『和魂漢才』については、現在のWikipediaには項目がありませんでした。

『和魂漢才』を新村出編「広辞苑」岩波書店第2版で調べました。

【和魂漢才】[菅家遺誡] わが国固有の精神と中国の学問と。また、この両者を融合すること。日本固有の精神を以って中国から伝来した学問を活用することの重要性を強調していう

と書かれていました。

なお、[菅家遺誡]とあるのは、和魂漢才という言葉の出典が平安時代の学者・漢詩人・政治家で、現在では学問の神様として著名な菅原道真(845-903)が後人のために残した訓戒を記した書籍に出ているという表示です。

しかし、筆者が知る限りでは和魂漢才という熟語を菅原公が直接書いて残したものではないようです。例えば、『菅原道真の実像』(臨川書店 2002)の著者(所功)は、次のように言っています。

「和魂漢才」という熟語は、学徳を表わす彼自身の言葉として、幕末ころから全国に広まった。しかし大正時代、加藤仁平氏が明らかにされたごとく、この熟語を、室町時代成立の『菅家遺誡』を解説する文中に記したのは谷川士清であり、しかも道真の言葉として使ったのは平田篤胤であるから、江戸中期以前にはさかのぼりえない。

とはいえ、つとに紫式部が『源氏物語』の中で「才(ざえ)を本としてこそ大和魂の世に用ぬらるゝ方も強うはべらめ」という意味に即して考えれば、外来の儒教・漢詩文に精通し、その『漢才』を活用しながら宮廷社会の現実に柔軟に対応する見識『大和魂』を発揮した人物こそ、実は道真なのである。従って、道真を『和魂漢才』の人と称えることは、十分意味があるといえよう

菅原道真に続いて、紫式部(979頃-1016頃)が女性としての美意識と鋭い感性によって宮廷における『和魂漢才』の重要性を意識していたことは、今日の私たちにとって大変興味深いことであるといえます。

さて、それでは『和魂洋才』を実践した明治時代を代表する人物は誰なのでしょうか?そのことについて書いた書籍(論文)が筆者の手元にあります。比較文学・比較文化学者で東大名誉教授の平川祐弘著:『和魂洋才の系譜〜内と外からの明治日本』、河出書房新社(1987)です。この本の中では森鴎外(1867-1916)が高く評価されていました。余談ですが、同書は昨年9月、10月に文庫本の形式で平凡社から上・下一組の復刻版が発売されていました。

筆者自身が、明治における『和魂洋才』のリーダー的存在を独断と偏見で選ぶとすれば、文学者では夏目漱石(1867-1912)、科学者では野口英世(1876-1928)、学者・実業家では福沢諭吉(1835-1901)など多士済々であった、と思っています。

2]『和魂洋才』と時代の変化

日本国内にあっては、明治から大正、昭和、敗戦、戦後復興から経済大国そして高度情報化の平成へ。この時代、マクロに見て世界的に大きく、しかも急速に変わったのは、自然科学と工学技術そしてグローバルな経済であることは誰も異存はないでしょう。

21世紀は、さらなる高度情報化とグローバル化の時代で、異文化コミュニケーションが極めて重要なことは、日本人の誰しもが感じていることではないでしょうか。そして『より美しい自己実現』との関係で言えば、『和魂洋才』は一部のリーダーだけの問題ではなく、日本国民全員の問題なのです。

明治時代のように海外旅行や海外留学が一部のエリートだけの特権であった時代は、すっかり過去のものとなってしまいました。そしてグローバルな高速インターネット網が世界中に張り巡らされ、誰でもが、いつでも、どことでも、特別な地域を除いては自由にコミュニケーションできる時代が来ています。さらに、個人を知的にサポートするGoogleやWikipediaなどのオープンな機能も急速に充実してきています。

私たち日本人は、『和魂洋才』を根底から見直し、それを再構築し、『より美しい自己実現』を目指す絶好の機会に今遭遇している、と筆者は確信しているのです。

3]21世紀の『和魂』と『洋才』

自然科学における進化論の今日的な知見を基礎として言うならば、『和魂』とは日本文化の真髄であり、『洋才』とは日本以外の文化の見習うべきいろいろな良い点ということになります。

より具体的に言うならば、国や地域の文化で中核を担っているのは、それぞれの文化に特有な言語体系であるということができます。人間は進化の過程で言語を獲得して使い始めた大昔から、母語を使ってものごとを考えコミュニケーションし、行動してきたのです。

日本では近代に入って、自分たちの認識能力を『感性』と『理性』の二元モデルで把握するようになりました。一方、西欧ではギリシャ哲学以来の伝統文化のうえで『感性(英 語のSensibility)』と『悟性(ドイツ語のVerstand、英語のUnderstanding)』と『理性(ドイツ語のVernunft、英語のReason)』の三元モデルになっているのです。

日本語の『感性』と英語のSensibilityは、同じ感性といっても意味するものは違っています。Sensibilityを感覚と日本語に訳すことも少なくありません。このことは、先に 2.4節で述べた日本の感性工学会の英語名が[Japan Society of Kansei Engineering]となっていることにも表れています。

筆者は、この日本語の『感性』こそが文化的には『和魂』を代表するキーワードであると考えているのです。それは先に3節で述べた本居宣長の短歌[敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花]にも現れていますし、聖徳太子の十七条憲法にもよく現れています。

聖徳太子十七条憲法
一曰。以和為貴。無忤為宗。・・・・・(一にいわく、わをもってとうとしとす。さからうことなきをむねとす。・・・・・)
一、調和する事を貴い目標とし、道理に逆らわない事を主義としなさい。・・・・・
[[聖徳太子十七条憲法]でGoogle検索してみて下さい]

日本人の『感性』の特徴は、西欧文化のように神と人間と自然を峻別しない『神・人間・自然一体』の独自文化の美意識と調和の感覚にあるのだ、と筆者は考えています。これは個人的な価値観とは別次元の問題なのではないでしょうか。

何よりも日本語自体が感性的な言語であって、英語的な論理を持ち合わせていないのです。例えば、日頃私たちが会話している場合、私とあなた、私と他者を厳密に区別して 話しするようなことはありません。常に私なる主語が省略されているのです。英語ではありえないことです。これは善し悪しの問題ではないのです。

文化には優劣はありません。しかし、私たちは日本文化の特徴をしっかりと認識した上で、更に自らの文化的特長を伸ばすと共に、足らざる点は他国の文化の長所に学べばよ いだけの話です。例えば、6節で述べた「適切な自己中心性」の適切の判断も日本人の場合は、自己の『感性』で決定することになるのではないでしょうか。

4]日本人の『感性』と『理性』

ここで私たちの『感性』と『理性』の二元的思考モデルに関連して、先に4節で述べた美学の源流を創ったことでも有名な、近代哲学の祖の一人であるカントの三元的な思考モデルを見ておくことにしたいと思います。

カントの思考モデルの要素は、感性と悟性、理性そして判断力です。さらに、判断力は規定的判断力と反省的判断力で構成されます。

私たちが風景や絵画や音楽などに接したとき、時間と空間という形式を持つ直感能力で情報(感覚的知覚:印象)を捉えます。これがカントの言う『感性』です。次に、いろいろな感覚的知覚を分類・整理してイメージを構築します。このような論理的能力を『悟性』と呼んでいます。

カントは判断力を、悟性と理性を総合する媒介であるとしていますが、判断力には二つあって第一のものは規定的判断力と呼んでいるものです。特殊なものを普遍的なものに含まれたものとして考える能力のことで、一般的判断力と考えられるものです。

もう一つが、美意識にも関係するカントが言うところの反省的判断力です。ここで言う反省とは、与えられた事象をさまざまな認識能力を使いその本質を知ろうとする心の状態のことです。従って、反省的判断力とは特殊なものの中に普遍的なコンセプトを見出す判断力ということになります。

このような考え方では、美的判断は単に個人的な判断だということではなく、ある種の普遍性を持つということになります。そして、美的創造力は多様なものの調和的統合の理念を呼び起こす力があるとされるのです。これがカント美学の原点なのではないでしょうか。

一方、カントの場合の『理性』は、理性が真理を明らかにすることが可能か?との問いかけで「理性批判」を展開し、理性の有効性と限界を明らかにしました。詳しいことは省略しますが、「純粋(理論)理性」と感性的な世界を超越した「実践(道徳)理性」とに分けて説明しています。

現在の日本語の国語辞典で『感性』とは、「外からの刺激を心で感じとる能力」であり、『理性』とは「ものごとを論理的に考え、正しく判断する能力」であると説明してあります。また、『悟性』は「経験にもとづいて合理的に思考し、判断する心のはたらき」、と出ています。

従って日本人が言う『感性』とは、カントが言う『悟性』の一部を含み、『理性』とはカントが言う『悟性』の一部と「理論理性」、そして八百万の神的道徳律を含んだものなのではないでしょうか。

いずれにしても、4節でも述べたイマヌエル・カント(1724年4月〜1804年2月)と前節で紹介した国文学者の本居宣長とは、くしくも生きた時代が全く重なっています[本居宣長(1730年4月=享保15年5月〜1801年11月=享和元年9月)]。

今や私たちの身の回りは、すっかり人工環境に囲まれてしまっています。私たちが日本文化の大和心を呼び覚まし、自らの『感性』を磨くためには自然とのふれあいを増し、自然の中に『美』の本質を見出すように心がけるべきではないでしょうか。

そして同時に、日本文化の『理性』は西欧文化の『理性』と比較してかなりあいまいである、と私たちは自覚する必要があります。足らざる自覚の上に立って、他文化の優れた点に学べばよいのです。

私の偏見かもしれませんが、論理的思考法を熟知しているはずの高学歴な若者たちの論理的コミュニケーション能力が、一向に改善されないどころか低下しているのではないかと感じる場面が多くなっています。いろいろな場面での他者との協働の実をあげるためには、『論理的コミュニケーション』のマナーが不可欠です。

5]『論理的コミュニケーション』とは何か?

誤解を恐れずに言えば、英語的コミュニケーションのマナーのことです。相手とのコミュニケーションに際して、自己の主張と主張を裏付けるデータとそのデータの信頼性保証(根拠)をワンセットとして相手に伝えることです。そして、その主張のワンセットを受け取った相手は、そのデータと根拠が了承できるものであれば主張は共有され、そのテーマに関してのコミュニケーションは完結します。

しかし、提示されたデータや根拠に疑問があれば議論は継続されます。この場合にあっても、最初の主張は主張として尊重されるのが原則です。人間は互いに自律した存在で、それぞれの人格が尊重されるべき協働にあっては、反対の意見であっても、それを尊重することで新たな創造が生まれるからです。

日本のコミュニケーション様式に対して、従来からも「あいまい」であるとか「腹芸的」などと指摘されてきたことと同一平面上の問題なのですが、自己主張のすれ違いではなく、それぞれの自己主張を共有し、さらに精緻化していくためには『論理的コミュニケーション』のマナーが不可欠なのです。

聞きっ放し、言い放し、沈黙は金、さらに自己主張の感情的なぶつけ合いでは全く建設的ではありません。昨年の夏ごろでしたが、筆者はある書店で平積みされている本の山の中から日本語の特徴と英語の特長を比較した一般向けの易しい解説書を見つけ出し、一定部数を購入して関係者に配布したことを思い出しました[横山雅彦著:『高校生のための論理思考トレーニング』、筑摩書房(2006.6)]。

むすびに代えて


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2006/12/18 00:00:00


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