本記事は、アーカイブに保存されている過去の記事です。最新の情報は、公益社団法人日本印刷技術協会(JAGAT)サイトをご確認ください。

5-2 【ミニコンピュータからマイクロコンピュータへ】

コンピュータの100年と、インターネットへの相転移  その7
(5.送り手・受け手相乗効果/応用範囲の拡大−後半)

社団法人日本印刷技術協会 副会長 和久井 孝太郎

【ミニコンピュータ(mini computer)=ミニコン】

言葉としての厳密な定義はないが,汎用の大型コンピュータより小型で安価なコンピュータを意味する。実用化の当初は,計測,計算,通信,生産機械などの制御のための専用機として使われることが多かったが,後に,OSを統一することでオープン化,ダウンサイジング化で極めて重要な役割を果たすことになる。

1957年,米国のケン・オルセン(*) とハーラン・アンダーソンは,高速デジタル回路を販売するためにデジタル・イクイップメント社(DEC)を設立した。彼らの最初のミニコンである「PDP-1」 は,1961年に開発され,1台12万ドルという当時のコンピュータの価格としては破格の安値で販売して人気を博した。名前のPDPとは,'Programmed Data Processor' の頭文字で,プログラム化されたデータ処理装置という意味である。
 [*筆者注:ケン・オルセンの名前はアタリの21世紀事典に登場した]

米国の大学で初めてのコンピュータ・プログラミング・コースが,1957年にMITで開講した。「PDP-1」 に関するエピソードは,このことに関係がある。DECは,「PDP-1」 の2号機を同研究室に寄贈した。この目新しいミニコンを切り刻み,意に添う仕組み作りに熱中した元祖ハッカー(hacker:コンピュータのプログラムに熱中する人)と全国の仲間達やホビーイスト(hobbyist:ここではコンピュータいじりの愛好家)の仲間達にその効果が波及して,後に,UNIXワークステーションやパソコンを創りだす巨大な力となった。DEC社は,1965年に12ビット・ミニコン「PDP-8」 を 1万8000ドルで発売,大ヒットとなって全世界に出回った。

19才でハーバード大学を飛び出し,1975年にマイクロソフト社を設立,36才で米国長者番付第1位の史上最年少記録を作ることになる天才ハッカー,ビル・ゲイツを育てたのもDECのミニコン「PDP-10」であった,と言われている。いずれにしても,ワークステーションやマイクロコンピュータの原点が,ミニコンにあったことは間違いない。

【ベンチャー企業が創ったマイクロコンピュータ】(*)

米国ベル研究所で,3極真空管に相当する最初の半導体素子「点接触型トランジスタ」が発明され,その特許が申請されたのは1948年のことである。続いて,49年にはより本格的な「接合型トランジスタ」,51年には「電界効果トランジスタ(FET)」が発明された。これらの業績に対して,後にノーベル賞が贈られることになるが,3人の受賞者の中の一人がウイリアム・ショックレーである。彼は,研究成果の商品化のために,ベル研をやめて「ショックレー半導体研究所」と呼ぶ新会社を1950年代の半ばに設立した。

1971年に,世界最初のマイクロコンピュータを創りだすことになる,ゴードン・ムーアとロバート・ノイスは,ショックレー研究所で働いていた仲間である。だが,ショックレーは研究者としては優れていたが,会社運営は上手ではなかった。彼の研究所は一つの技術も,一つの商品も完成せずに,所内の不協和音で57年の半ばに空中分解してしまった。その直後,ムーアとノイスら8人の研究所の仲間は,彼らが相談を持ちかけたハイドン・ストーン投資銀行が派遣したハーバード大学ビジネススクールを卒業したばかりの若者アーサー・ロック(後に,米国で初めてのハイテク企業向けベンチャーキャピタルを設立した)の助けで,IBMの個人筆頭株主でフェアチャイルド企業グループのオーナーでもあるシャーマン・フェアチャイルドから出資を得て,トランジスターの商業化を目指して「フェアチャイルド・セミコンダクター(FCS)社」を設立した。

彼らは各種のトランジスターの商品化に成功FCS社は米国有数の半導体企業に成長するのだが,彼らが雇った技術部長が途中で技術ノウハウ(know-how:技術秘密)と数名の部下をつれて新会社を作るなどの困難があった。彼らは,「とにかく技術開発競争では絶対に負けず,新しい技術をどんどん生み出せ」という教訓を得た。

ノイスはFCS社で,その後に各方面に衝撃を与えることになる半導体集積回路(IC:integrated circuit)を1959年に発明した。彼らは,ICの商業化にも成功したが,オーナーが死亡した後FCS社にも親会社と不協和音が立ち始める。彼らは,FCS社を作った時に各自 500ドルづつ株式投資をしていて,オーナーとの約束で,会社設立2年後からは自分の株式を売る権利を持っていた。ムーアとノイスがFCS社をやめて自分の新会社を作る決心をした68年には,最初の 500ドルの投資が25万ドルになって帰ってきた。二人は,またロックの助けを借りノイスが社長,ムーアが副社長として,現在,マイクロコンピュータ関連のLSI製造会社で世界一強力なインテル社を設立することになる。米国では,1968年から69年がベンチャーキャピタル(venture capital:ベンチャー企業に投資する大企業)を最も利用しやすい時期であったと回顧されているが,彼らは新会社の設立と運営に必要な資金を十分に集めることができた。

彼らはまず最初に,磁気コアメモリを代替えするなどコンピュータ分野で大きい需要が見込まれるLSIのDRAM(Dynamic Random Access Memory:記憶保持動作が必要な書き込み読み出しメモリ)を商品化することにした。1970年には世界初の1KビットDRAM「1103」を出荷できるようになった。インテル社は72年からDRAMの量産に入り,大ヒット商品となって会社の経営は軌道に乗った。

一方,DRAMの商品化に目処をつけたノイスとムーアは,「複雑な回路構成を持つ商品を大量生産する」という基本線に沿って,急速な普及を見せていた電卓向けのLSIチップ(chip:LSIを作り込んだシリコンの四角の小片)に挑戦することにした。ちょうどその頃,日本計算機販売(通称:ビジコン)が電卓用のLSIを発注してきた。彼らは日本側の担当者嶋正利と共に世界初のMPU(Micro Processing Unit:LSIチップに組み込んだ超小型のCPU)「4004」を1971年に商品化することができた。「4004」は4ビットのMPUであったが,ノイスとムーアは最初これがマイクロコンピュータに発展するとは思っていなかったが,あまり時間を置かず彼らのMPUに対する巨大な需要と性能向上に対する期待があることを知った。

「4004」のLSIチップは,2300のトランジスタを集積化したものであったが,1972年に発表した8ビットMPU「8008」では1チップに6000個,79年に発表した16ビットMPU「8086」では1チップに 2万9000個,85年の32ビットMPUではトランジスタの数が27万5000個になった。 LIS技術の進歩を1チップに集積化するトランジスタの数で評価すると,2年ごとに2倍進歩することになる。この経験則を「ムーアの法則」と呼ぶようになった。

DRAMとMPUの進歩は,コンピュータ分野のみならず,メディアを含む社会のいろいろな分野に変革をもたらし,『デジタル革命』という言葉がつくられる原動力となっている。もちろん,需要が急増した商品を1社だけで生産することは許されない。もしも,工場で事故でもあれば生産が停止して社会に計り知れない損害を与える。そして,独占は競争を疎外して進歩を停滞させるからである。

特にLSI商品のように産業部品として利用されるものでは,それを利用する産業側のセカンド・ソース(second source:第2の供給源)の確保が重要である。DRAMとMUPは世界各国で生産されるようになったが,特にDRAMは,日本や韓国企業が急成長して,1980年代半ばには日米半導体摩擦と呼ばれる状況がある期間続いたこともあった。
 [*筆者注:玉置直司:インテルとともに〜ゴードン・ムーア私の半導体人生,日本経済新聞社(1995)]

索引に戻る

2000/06/07 00:00:00


公益社団法人日本印刷技術協会