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「PAGE」の20年と近未来(その1)

JAGAT常務理事 小笠原治
JAGAT研究調査部 副参事 郡司秀明

JAGAT主催の「PAGE」は、プリプレスのデジタル統合処理の啓蒙を目的に1988年2月、JAGAT20周年記念イベントとして開催された。DTPによるプリプレスの変革を経て、IT化による情報コミュニケーション再構築へと常に時代をリードし、既存の業界の枠組みを超えたあらゆる産業の方々から、大きな期待と関心をいただけるものに成長した。
20回目の開催となる「PAGE2007」は、例年と同じくサンシャインシティコンベンションセンターTOKYOで、2007年2月7〜9日に行われる。そこで、PAGE20周年を記念して、この20年間のプリプレス関連の変化を振り返ってみたい。


■日本のDTPスタートとともに始まった「PAGE」

小笠原 「PAGE」は1988年2月に始めたので、PAGE2007で20回目になる。1987年1月にモリサワがアドビシステムズ社と契約して日本語フォントを提供するという発表があり、日本でもDTPがスタートすることが明らかになった。そこで、「PAGE」という展示会を考えたが、バブル景気の真っ最中で、1987年中には会場が取れず、会場が空いていた2月の開催となった。
電算写植やコンピュータ組版の調査をしていたが、欧米の動きとして、取りあえずモノクロの世界から始まった版下の代わりのようなDTPがあって、Macintoshからライノトロニックなどにつながっていった。この意味は日本ではピンとこなかったようだが、いずれ日本もそうなると考えていた。
当時のプリプレスのイベントのネームバリューは圧倒的にトーマス・ダンのレーザー・イン・グラフィックスであったが、ジョナサン・シーボルトに会って触発されてこちらを見習っていこうという形になった。

郡司 私はそのころはCEPSベンダーにいた。CEPSベンダーもメインフレームメーカーのように、今のIT時代のようなことを重厚長大ながらも考えていた。作図機は日本の発明で、DTPの入り口に位置していて、製版を図形処理として考えていた。
1984年にMacintoshが発表されたが、私も最初はある程度否定的だった。それほど簡単に大容量データは扱えないと考えていた。しかし、実際にMacintoshに触ってみて30分で転向した。何年掛かるか分からないが、CEPSはいつかは負けると思った。負けるよりは共存したほうがいい。それが、私のデジタルのスタートだ。

小笠原 デジタルで最終形がどうなるかは共通認識であったと思うが、メーカー各社がそれぞれの立場で試行して、作図機と写植機とスキャナをつなげたようなものが数多く出現した。億単位の写植機と億単位のCEPSがあって、それをつなげるのにまた1000万〜2000万円掛かる。費用がどんどん増えてていくのでは勝ち目がないし、整理がつかないだろうと感じた。

郡司 私もそう思った。トーマス・ダンは画像データを規格化し、ページデータという作図機のデータなどはかなりサポートしていたが、サイテックスがマスク重視なので、ランレングスデータを主体にし、それがデファクトになったのでうまくいかなかった。
しかし、本当にサイテックスが世界的に有名になったのは、CEPSのコンセプトよりも、実はPhotoshopである。PhotoshopにサイテックスCTが載ったのがすべてだと思う。

小笠原 DTPはデスクトップのところはできたが、出力がライノトロニックのような写植機から来ていたもので、画像を出すデバイスがなかなかなかった。そこをサイテックスがうまくインターフェイスをもっていて吸い上げていった。

郡司 それほど難しい話ではない。要点は2つ、一つは機械精度、4色合うかどうかで、合わないとカラー印刷にならない。もう一つは網点精度である。この2つだけだが、それをたまたまCEPSはもっていた。

小笠原 ポストスクリプトもその前のインプレスもそうだが、最初から網点くらいのことは考えていた。しかし、網点の角度がどれだけ重要かは考えていなかった。だからそのままプロの世界にはつながらなくて、グッドイナフカラーなど過渡期がいろいろあって、DTPは遠回りしたと思う。

郡司 メーカー側は、いつか精度は解決されることを知っていた。それをどうやってうまく収束させて、最終的にどこまで自分のロードマップを作ればいいかを考えていただけである。むしろ、ユーザーのほうが、こんなおもちゃのようなものでできるかと考えていた。

■西海岸から始まったDTP

小笠原 アドビのポストスクリプト展開はSOHOでデザインをやっている人の立場、SOHOに対して売るところ、それからCEPSメーカーがRIPを売ることなど、いろいろなビジネスと組み合わせてうまくバランスしたから、かなり長い期間にわたってリードできたのだろう。

郡司 アドビは欧米の技術だけではなく、印刷技術が優秀な国からそのノウハウを取り入れていた。その取り入れ先の最右翼が日本だった。

小笠原 網点なども、ヨーロッパのベンダーにはそれぞれのやり方をRIPに入るようにしてやっていた。アドビ自身は、そこのところは自分で製品にしていないからこだわりがなかったのかもしれない。アドビのいいところはそのフレキシビリティ、ソフトに特化していることなどだろう。

郡司 それから、アドビが西海岸出身というのが大きいだろう。西海岸には印刷という文化がないから、大胆に挑戦できた。東海岸なら、どうしても今までの慣習に束縛されてしまう。

小笠原 東海岸には大手の出版社や広告代理店があるから、「こんなものはだめだ」と言われるに決まっている。

郡司 そうだ。さすがのアメリカでもだめだったと思う。西海岸は印刷不毛地帯で、コンピュータ会社と航空機メーカーくらいしかないような地域である。

小笠原 DTPはタウン誌や無料誌からスタートできたのがよかった。アメリカも田舎と都会では品質の差があるので、そういう新しい未熟な技術が入っていけるところがあったのだろう。

郡司 海外の印刷や原稿は良くないと言うが、「ヴォーグ」のような高級誌やニューヨークやシカゴで見るカタログなどは非常に高い品質である。そこにいきなりDTPは無理だったはずだ。

小笠原 アドビはそういうところでも使えるし、サイテックス経由などでプロの世界でも使えることで、やはりジョン・ワーノックは、この世界を変えた大きなキーだと思う。

郡司 私はAcrobatを理解するのに2年くらい掛かった。その意図することが後から非常によく分かった。

小笠原 Acrobatには文書交換もあるし、いろいろなものがある。ワーノックは基本的にはエンジニアなので、スタンスは技術である。それがいかに汎用性や将来性があるか考えている。アプリケーションはその場その場で適当に商売になるものを見つけて、それをチャールズ・ゲシキがうまく渡りを付けてやっていたと思う。

郡司 ポストスクリプトもPDFも先見的である。20年近い先を見ている。

小笠原 ポストスクリプトのようにほとんど変わっていないものはITの世界ではごくまれである。それだけワーノックはポストスクリプトを頑迷(がんめい)に守りとおした。似たようなことを考えている人はいくらでもいたが、それだけ徹底してやったので、それにみんなが乗っかろうという話になったのだろう。

■ユーザーオリエンテッドなDTP

郡司 シリコンバレーを中心にDTPが盛り上がるのは分かる。しかし、本当にアメリカがすごいのは、それを商売ベースにしようと考える人間がいることだ。そういう人間は東海岸に多いような気もする。例えばサイテックスアメリカなどの連中は大したものだと思う。

小笠原 サイテックスアメリカは、ユーザー会が非常に強力で影響力があって、会社以上の存在だったと聞いた。

郡司 そのとおりだ。ユーザー会に力があったから、PhotoshopにサイテックスCTが載った。Photoshopワールドの組織も同じように、Photoshopをアドビから離して自分たちで強力に推進しようとしている。Photoshopロープラグインなどがそうである。アメリカは独自のそういう動きをした時に強い。世界を変えていく印象がある。
CEPSの時代は電算写植機が画像を取り込むか、CEPS側が文字を取り込むかで争っていたが、結局はどちらもDTPにやられてしまった。
DTPは、最初は印画紙にしか出せないので文字しか扱えなかったが、フィルムになって網点も出るようになった。出力サービスは、写植版下業者がサービスビューロや出力ショップを始めた。それから、画像をきちんと扱える製版会社が出力センターを始めたりして、文字の時代から画像の時代へシフトした。

小笠原 MacintoshUでカラーになったが、スキャンをどうするかの問題があった。

郡司 DTP向けのサービスはスキャナのセットアップができるところに移って、いつの間にかデジカメなどが主流になって現代に至るのが、大きな流れとしてあるのではないか。

小笠原 出口は、CTPのプレートセッタなど、設備としては残っているが、スキャナは本当に変わってしまった。


※この記事は、第2回に続きます。

2006/11/19 00:00:00


公益社団法人日本印刷技術協会