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印刷業界の変革をリードするJAGATへ [その1]40年間の業界変化

JAGATは2007年に創立40周年を迎える。この間の印刷業界・同関連業界の変化は非常に大きなもので、JAGATが果たすべき役割も大きく変化している。今回はこの40年間の変化を概観し、社会の変化に対応して変身してきたJAGATの姿とともに、今後のJAGATの活動の方向を紹介したい。


コールド化、オフセット印刷への転換

JAGATが設立された1967年は、戦後最長と言われた「いざなぎ景気」の真っ只中で、1968年には日本は世界第2位の経済大国となった。テレビ・洗濯機・冷蔵庫が三種の神器と呼ばれ、大量生産・大量消費が景気拡大を加速させ、驚異的な経済成長が続いた。その一方で、公害問題が深刻化し、自然環境の急速な破壊が進み、都市への人口集中と過疎の問題が発生した。

1970年夏「日本万国博覧会」が大阪で開催中に、57カ月続いた「いざなぎ景気」は終わったが、1971年のドルショックによる実質的な円の切り上げは、国際収支の過度な黒字を修正して経済の安定化に寄与した。しかし、1973年のオイルショックによって、戦後初めての実質マイナス成長となり、高度経済成長期は終わりを告げた。

印刷産業の出荷額は、1960年代に入って対前年比20%前後の伸びが続き、GNP(国民総生産)を上回る成長を遂げた。印刷需要が拡大する中で、1969年には電算写植機が登場し、文字組版の合理化が図られた。また、1968年に鉛中毒予防規則が活字鋳造、文選、植字、解版部門に適用され、作業環境の見直しの必要が出てきた。一方、熟練作業者の確保、カラー化、需要拡大への対応の必要性から、凸版印刷からオフセット印刷への転換も促進された。

1970年代に入っても引き続き印刷需要が増加していく中で、技術革新はさらに進んだ。製版カメラからカラースキャナへの移行が急速に進み、1979年には最初のCEPS(Color Electronic Prepress System)が発売された。また、PS版の品質向上と高速オフセット輪転機の普及により、印刷方式のオフセット化も急速に進んだ。

このような技術革新に対応し、若年労働力不足や熟練者の減少などの問題に対処するためにも業界の近代化の動きも進展した。1971年に承認された全印工連の第1次構造改善計画では、文字組版方式の転換を「活字よさようなら、コールドタイプよこんにちは」というキャッチフレーズで推進した。

デジタル化によって大きく変わった印刷業

1980年代に入ってOA化が進展すると、印刷業界でもパソコン、ワープロ、ファックスなどのOA機器が活用されるようになった。さらに、ワープロのデータをコンバーターを介してCTSに取り込むことが可能となった。

1985年のプラザ合意により急激な円高が進行し、バブルの時代となった。印刷産業の出荷額は名目GDP(国内総生産)の成長率より2割ほど高い伸びを続け、情報化・ソフト化の進展の中で、内需型産業として6兆円規模にまで成長した。産業構造審議会紙・印刷部会は1988年に『2000年の印刷産業ビジョン』を発表し、印刷産業は今後12年間年率6.5%で成長し、2000年の市場規模は15兆円と予測した。印刷産業の出荷額はバブル崩壊までは予測を上回るペースで成長を続けた。

1985年にアメリカでPageMakerが発売され、MacintoshによるDTPが始まった。日本にDTPが上陸したのは1987年ごろで、日本語組版ソフトやフォント、出力環境などの課題は多かったが、JAGATではプリプレスのデジタル統合処理の啓蒙を目的に1988年2月に第1回の「PAGE」を開催した。

ちなみに小会で発行している『JAGAT info』の編集作業では、1988年から社内原稿はすべてMS-DOSテキストとし、パソコン通信を利用して印刷会社に伝送することで納期短縮を図った。さらに、1992年からMacDTPに移行し、2006年にはPDF入稿による完全CTP化を実現している。

1989年に昭和から平成に時代は変わったが、好況は依然持続し、印刷業は3K(きつい・汚い・危険)職種というイメージもあって、中小企業を中心に人手不足が深刻な問題となっていた。印刷業界は設備投資を積極的に続けて、作業環境の改善や省力化に努めたが、慢性的な人手不足は続き、また地価高騰によって都市部の地場産業としての印刷業が成り立たなくなってきた。

しかし、1991年に入ってバブルが崩壊すると事態は一変する。日本経済全体が急速に冷え込んだことで、印刷産業の出荷額は1991年の8兆9286億円をピークに、1992年から3年連続してマイナス成長となった。1995年からの3年間はプラスとなったが、1998年から再びマイナスに転じ、2000年には8兆1378億円まで縮小した。

この間の印刷技術はデジタル化がさらに進み、社会全体のIT化の流れの中で、プリンタやデジタルカメラの普及によって、印刷業界固有の技術は次第に減少していった。また、インターネットや携帯電話の普及、出版不況や新聞宅配の減少などは、紙メディアの危機と捉えられた。

供給過剰と価格破壊の流れの中で受注量は回復しても受注金額は回復せず、最新データの「平成17年工業統計速報」では2005年の印刷産業の出荷額は7兆1123億円となり、8年連続のマイナスを記録した。11月の月例経済報告では、2002年に始まった今の景気拡大が4年10カ月となり「いざなぎ景気」を追い抜いたとされたが、印刷業界にとって景気回復の実感に乏しい、厳しい状況が続いている。

JAGATは2002年に「印刷新世紀宣言」を発表し、2050年にかけて持続発展が可能な印刷に再定義する意味で、「印刷文化の継承の上で、今後の努力で伸ばしていける分野として、クロスメディアとeビジネスとデジタルプリンティングがある」と宣言した。

次にJAGAT40年の歩みを振り返る中で、JAGATが時代の変化に対応して、新たなビジネスモデルを確立してきたこと、さらに「印刷新世紀宣言」に至るJAGATが果たしてきた役割の変化と今後の方向性を紹介したい。


印刷業界の変革をリードするJAGATへ

・その1:40年間の業界変化
・その2:40年間の歩みと今後

2007/01/07 00:00:00


公益社団法人日本印刷技術協会