プリンタであれオフセット印刷であれ、画面やプロジェクタであれ、「画像の再現」という意味ではそれなりに進歩したのだが、人間の眼、つまり裸眼で見たシーンと再現された画像の間にはまだ大きな隔たりがある。そこを詰めていくのがこれからのグアフィックアーツの技術開発のテーマである。つまり今までカラーマネジメントとして行ってきたのは、下の図の中央と下段のキャプチャーからイメージングまでであって、それ以外の図上段の左右の要素はそれほど取り扱ってはこなかった。ここではそういった分野がなぜ注目すべきかについて、かなり憶測も含めて考えたい。
2007年1月に「肌色シンポジウム」というのを行って、実際の肌の色を計測し続けているお話も伺った。しかしそれは肌色再現とは直接関係ない。同様に黒髪だけをとって計測すれば黒というデータになるかもしれないが、実際の頭髪では天使の輪のように光っているところもあり、「モノの色」が「画像の色」とイコールではないことがわかるだろう。黒髪が光るというのは「黒」とは逆の作用であるが、これによって髪の量感や流れというのが表現される。
肌に関しては、いくら美形のマネキン人形に化粧を施しても、それほどリアルなイメージが沸かないだろうし、強い印象を持つことにもならないだろう。その点では蝋人形の方が勝っている。これは食堂のショウウィンドウにある食品サンプルにもいえることである。その差はどこにあるのか。それは蝋が半透明だからだ。人の肌も、多くの食材も内部に光が射し込む半透明構造である。
人の肌も昔の花嫁か歌舞伎役者のように厚化粧してしまうとマネキンと同じだが、半透明のボヤッとした感じと発汗などによるしっとり感がきっと重要だろう。それをカメラはどの程度捉えられるのか、捉えられないのか、というのが第一の疑問である。
肌が半透明であると光が当たるところは凹凸のわずかな影は弱まって全体に明るめのフラットな感じになると思う。逆に光が当たり難いところは半透明性に起因する現象はないと思われる。通常は頬から顎にかけて薄暗くなるが、人の意識として肌の色が変わったとは思っていない。眼を凝らしてみると薄暗く見えるとしても、「常識」と眼の順応によってそこに明暗の大きな断絶は感じない。
しかし写真を印刷する場合などではそこに色溜りとかトーンジャンプが発生することがある。顔の撮影の際に下から照明し難いのを、カメラは正直に捉えるから色溜りは起こりやすいと考えられる。色溜りは光学的には正しくても人間の感覚としてそのような形状は無意味なので耐えがたくなるのであろう。ここが写真と絵画の違うところで、絵画では顔の形状にあわせて影の部分を恣意的に描いてしまう。昔、漫画の中に写真を2値化して組み込むことを誰かが行っていたが、そこにおける違和感は写真の影表現が人間にとっては見づらいからだった。
黒髪の天使の輪のような反射・光沢のバリエーションはいろいろな素材感ごとに多くあり、今日ではCGで「それらしさ」を表現するアルゴリズムが蓄積されてきたことは、映画やゲームで周知のとおりである。人は素材ごとの反射の癖を覚えて「それらしさ」と感じているのだろう。銅の色は反射の角度で変わるので、色度では表しにくいものであり、色が順次変わるという点が人にとっては「銅らしさ」なのである。
人の「見る」という行為は、眼が瞬間瞬間得た情報をもとに脳の中で組み立てた結果であり、絵画でピカソやフランシス・ベーコンなどの歪んだ絵はリアリズムに見えないかもしれないが、あのように見えている瞬間もあるはずだ。脳では最初に動きを認識して、次に形を認識し、最後に着色していると考えられる。記憶や夢には色がついていない場合があることを思い出してもらいたい。
また以上のような脳での画像の組み立ての特に後ろ半分は後天的に起こるもので、その人が乳幼児期に過ごした環境の影響を多大に受ける。だから文化や自然環境が異なるところで育った人は異なる認識をすることになる。その差がどれくらいあるのか、また訓練でそこは埋め合わせられるのかというのも興味あるところである。

関連セミナー:「色の心理物理的な側面」2007年8月20日(月)13:30-17:00
講師: 小町谷朝生氏、鈴木恒男氏 於:日本印刷技術協会 tel:03-3384-3113
(2007年7月)
2007/07/27 00:00:00