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形勢はDTPの逆転勝利へ 1988年

DTPの過去・現在・未来 その4
1997年7月31日T&G研究会ミーティング「DTPの発展を検証する」より (社)日本印刷技術協会 理事 小笠原 治

1988年はいろいろな意味で大逆転の年であった。1987年頃すでに1,000dpiのレーザープリンタやバイデックスの160万画素のCCDカメラが出ているが、これらはまだ高いので商品としてそれほど売っているわけではなかったが、デバイスの進歩がどうなるかは理解できるようになっていた。やはり一番遅れていたのはDTPソフトである。

やっとプロの世界でも本格的に使えるIllustratorのようなソフトが定着し始めた1988年に、シーボルト氏は「第4の波(ForthWave)」の宣言をした。第1の波とは、約100年前のライノタイプやモノタイプの登場を指し、機械による自動組版の開始である。第2の波は欧文では1950年代にアイディアが生まれ、1960年代に出版産業界にデビューした電算写植である。これは欧文のハイホネーションやジャスティフィケーションをコンピュータ処理することや、カラースキャナなどのような電子化を指した。

第3の波は、1970年代に始まった印刷分野の専用機による統合システムを指す。それまでは文字であれカラー画像であれ、出力機が中心で、それにブラ下がるように前処理装置(フロントエンド)が開発されていった。最初はターンキーシステムと呼ばれた、メーカーがすべてお膳立てして、オペレータが座れば使えるような特殊コンピュータであったのが、次第にミニコンの時代になって、異なるシステムを統合するようなカスタマイズが行われるようになった。

それにしても元がそれぞれ専用機であるから、利用者の仕事に即したシステムを組むには大変な投資が必要であった。しかし欧米では統合処理の要求が強く、1980年代はフロントエンド開発とシステムインテグレータの時代であった。文字に強い会社は画像を勉強し、画像に強い会社は文字を勉強するようなことが起こっていた。しかしシステムはどんどん大げさになり割高になっていった。

第4の波とは、第3の波の専用システムを汎用のコンピュータ上に移していくもので、今考えると当たり前であるが、当時のMacIIの能力とメインフレームやミニコンの能力はとても比較できるものではなかったので、なかなかピンと来る人はいなかった。しかしシーボルト氏は、この変化が非常に大きな意味を持つと力説して第4の波という言いかたをしたのである。

第4の波では標準規格、標準インタフェースが重要になる。しかし当時はPostScriptが焦点であったものの、Type1フォントのオープン化を巡ってAdobeとパソコン会社の間でひと悶着あったほどで、果たしてプロの世界の秘密主義的な技術情報が標準の世界になると素直に考えられる人はあまりいなかった。

しかしシーボルト氏は市販のパソコンの上でパッケージソフトを買ってプロの仕事が出来るようになることが必然であると予言したのであった。この時まだQuarkはver2.0が出たばかりであった。日本でもPAGE88に日本語ベータが参考出品され、当時システムソフトが作ったサンプルを見ても、DTPのなんたるかが分かっていないような心細い状態ではあったが、シーボルト氏の第4の波を信じて応援していた。

印刷の仕事には必ずPostScriptがかかわってくることは、欧米では大体認識されてきた。もう1つ1988年の大きな出来事は、ANPAでサイテックスがビジョナリーを出したことである。サイテックスのビジョナリーは総称だが、簡単に言うとQuarkXPressとのインタフェースである。クオークがQuarkXPressをサイテックスにOEM提供して、サイテックスでカスタマイズしたMac上ソフトとサイテックスをつないで使う。それまでのカラーDTPはIllustratorなどでドローに色をつける類のことだったが、サイテックスのカラー画像のレイアウトを含めてDTPでハンドリングできることになる。

サイテックスもこの分野で足場を築くし、クオークもカラーのパブリッシングで足場を築く。これがタイムライフなどカラーのグラフィック誌などにQuarkXPressが使われる最初になる。これは後に両者がうまくいかなくなって、QuarkXPressのエクステンションとしてサイテックスがソフトを提供するように変わってしまうが、ともかくこれによってカラー製版とDTPの結合ができた。

1988年の決定的な出来事は、Ipex88という秋のイギリスの展示会において、今まで欧米の写植機を作っていたメジャー4社であるライノ、モノタイプ、バリタイパー、コンピュグラフィック(後のアグファ)の新製品が皆PostScriptのイメージセッタに変わってしまったことである。1985〜87年くらいまではイメージセッタといえばライノタイプの独占状態のようだったが、それに対して今後新しい出力機は全部PostScriptだというふうに変わったことは、写植業者には大衝撃であった。

シーボルト氏の「第4の波」は。「写植が無くなる! 次は製版か?」というのと同じような響きをもって業界に捉えられていたと思う。前述のようにメーカーは次世代に向けて方向転換をし始めたのに、利用者側は率直に受け入れるところよりは、なんとか抵抗しようという努力ばかりが当時は目立ったように記憶している。

シーボルト氏はコンピュータがプリプレスを全部包含してしまうことと、コンピュータは印刷業の都合や、出版の都合など関係なく、勝手に進歩するのだから、利用者はもっとアプリケーションに目を向け、アプリケーションのことだけ考えていればいいと言った。これは、QuarkXPressやPageMakerのことではなく、もう少しシステム的な意味で、どういうアプリケーションを使って仕事用にカスタム化していくかなど、システムインテグレーションを利用者が行うように啓蒙していた。

量産の汎用のコンピュータは、それまでの専用機と比べたら経済性がいい。それを使ってカスタム化するというのは、マスの経済性で、ニッチの効用が出るように考るのがよいという方向を第4の波で示した。

その1 DTPの発展を振り返る DTP前史 1980〜1984

その2 無視された夢想家  DTPの出現 1985年

その3 DTPの衝撃と定義 1986-1987

2000/04/10 00:00:00


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