第1回 Print Ecology(印刷業の生態学)序論
第2回 印刷における個体企業の生態学 ニッチ戦略
第3回 環境の激変 パラダイム・シフト
第4回 企業中心社会・工業化社会から情報化・グローバル化社会へ
第5回 市場経済化について
第6回 技術のパラダイムシフト
第7回 経営思想のパラダイムシフト
第8回 コーポレートガバナンスと、印刷業の群集
第9回 経営管理のデジタル化
第10回 個体群と群集のニッチ
第11回 住み分け − 企業規模別ニッチ
第12回 タテ型分業
第13回 印刷産業の群集 ヨコ型分業
第14回 ニッチ(niche)の崩壊 古いパラダイムの崩壊
第15回 技術の異変
このフレーズは東大のある教授が、記念講演の中で使ったものだ。私は東京の市街地、中野富士見町の近くに住んでいるが、それでも昔は小さな庭でも蛙がいて、春には蝶が舞い、「うぐいす」や尾長どりのような美しい小鳥が常時訪ねてくれた。秋にはトンボや美しい音色の「こおろぎ」をはじめ、色々な昆虫が秋の夜長を楽しませてくれた。
こうした小さな自然も、この20年位の間にすっかり変り、庭への訪問客もたまにしか見られなくなった。正に静かな春になった。庭の中だけのことなら良いが、日本の自然界全体が静かな春になったら一大事だ。花の受粉が行われなければ、秋になっても実り豊かな果実は得られない。「にぎやかな春、実り多い秋」を求めている。
しかし、現状は残念なことに上から下への流れである。大手業者が中規模業者の仕事を正当に争うには、中規模業者の体質(販売一般管理費比率20%以上)に近い組織を作り、それを中規模印刷会社として分社化する必要がある。または、中規模業者が中小ロット用に使用している生産システムを革新的に合理化し、製造原価を10%削減すれば、その分だけ販売管理費に上乗せできるから、大手会社でも中会社と正当に争うことができるだろう。
実態は中規模の生産システムはそれなりに合理化され、成熟化しているので、製造原価の切りつめは困難だろう。そこで大手会社は中規模会社より安い価格で受注し、それを下請会社に外注をし、差益をとることになる。これは全くの価格破壊であり、大手の地位利用という不公正な競争ということになる。
こうして大手の地位利用という営業活動を続ければ、大から中、中から小へと連鎖反応が起るから、印刷人は諦めの心境になり、反発するよりも口を閉し静かに印刷界を去ることを考える。本来、競争は活力を引き出すものだ。「すみ分け」の壁の中で、同規模業者間で行うなら活力を増進するが、壁をとり払ってしまうと無秩序な競争になってしまい、「静かな印刷界」になってしまう。
a)技術変化による撹乱
IT技術が印刷界にどんどん入ってくる。生産部門のIT化なら、ある程度はサプライヤーの技術に依存することができるだろう。但しCTPにしろ、DIにしろ、高額な資本投下を必要とするので中小印刷界にとっては高嶺の花ということになる。たとえCTPやDIを使おうと思っても、その時にはプリントデータのフルデジタル化は作業の前提として日常の作業になる。製版作業、プリプレス作業を全面的に専業者に依存している中小印刷業者にとっては、この時点で落伍ということになる。
その上、営業管理や経営管理という事務部門も、すべてイントラネット、エキストラネットというネットワークによるデータ管理に移行することになる。得意先や社内各部門とのデータ交換はすべてフルデジタル環境で行われるし、ジョブティケット(受注伝票)の情報がすべてオンラインで流れるようになるので、5年以内に経営管理の仕方も大変革するようになる。21世紀の技術変化は正しく技術のパラダイムシフトであり、印刷界のニッチの大撹乱要因である。
b)顧客の変化
印刷界は受注産業だから顧客は神様のようなものだ。その顧客の経営がフラフラしてしまったら、技術システムの変化も努力も無意味なものになってしまう。前述したように出版界も、小売業界も、ホテル、デパート、金融、保険などの各業界も、構造改革が進行中でゼロサムどころか前年比マイナスサムの様相である。一部の業種を除いて、多くの業界のマーケットが縮小して行く、そうなれば当然、印刷業者の受注競争がはげしくなり料金が下落する。その上、得意先自体の経営も悪いのだから、安定受注ができず、過当競争を求められ、コストの壁を破って赤字受注になってしまう。
印刷業者は昔から主要な得意先との間には強いニッチがあった。顧客のニッチにも印刷業者のニッチにも、役立つような相互信頼関係があったものだ。従って中小印刷業者なら、たとえ100社の得意先があっても、上位5〜10社の得意先の売上高で全体の70%〜80%のシェアをしめてしまう。ところが顧客自体の経営が悪くなるので、いくら信頼関係があっても上位得意先のシェアがどんどん落ちてしまう。こうなれば何としてもその穴埋めをしなくてはならない。信頼関係の小さい新規顧客を求めるようになる。すなわち価格競争だけの受注合戦をせざるをえない。残念なことに、こうした環境の中ではニッチはどんどん小さくなる。
c)個体群の競争とニッチ
個体群とはいうまでもなく、印刷産業内の各業種のことをいう。いま印刷界は激しい技術変化の中で業際の壁が消えようとしている。DTPの普及の中でグラフィックデザイナ業界と印刷業との業際が消えようとしているし、同じくプリプレス業、製版業と印刷業との業際も消えて行く。印刷機メーカーが後加工、特に光沢加工のユニットを追加する中で、光沢加工業界もマーケットを小さくする。
DocuTechのようなPOD(プリントオンデマンド)が社内印刷として普及したり、KINKOs、OfficeMac、OfficeDepo、東京リスマチックのようなクイックプリンタというネット業者が、街のオフィス内印刷需要を吸収すれば、プロパーな印刷業者、特に小印刷業者群のニッチはどんどん小さくなる。一方、印刷業者自身のニッチの壁が削減したり、低くなったりするので、従来の写植業者やプリプレス業者、グラフィックデザイナー業者などの人たちも自分たちの生存を賭けて印刷事業に参入してくる。
こうした業際問題は主として技術変化に原因があるのだが、この技術変化はCTP,DI、ワークフローなどまだまだ続くものだ。こういう時代になったらもう印刷界には工程別のタテ型分業は消えたと考えたほうが良いだろう。そしてまた新しい競争環境が発生する。
生態論にはタカ派とハト派の共存に関する分析がある。タカは常にハトを狙うのであるが、ハトの個体数が少くなるとタカ同志が争うことになり個体数を減らすので、タカとハトのバランスは保たれるというものだ。
にぎやかな春、バランスのとれた春のなかでも動物たちは自分の巣、生存分野(ニッチ)を守るために懸命の努力をしているし、弱肉強食の論理も行われている。それでも自然の営みは種の保存というバランスを崩すことはない。沢山の「種」が混在している自然界でもバランスをとろうとしている。
私達の印刷界もバランスをとらなければならない。印刷界の中には肉食と草食というような異種の個体群がいるわけではない。みんな同じ印刷事業を行おうとしている同種の個体群である。その中での争いには、その地域、地域でボスになろうという小さな争いもある。勿論、大中小という規模の差は単に規模の差というだけではなく、経営資源、経営力の差が歴然としてあるので、大中小それぞれの印刷業者は単に同種の個体群というだけではなく、同種異属の個体群ということになるのだろう。すなわち簡単に大中小の個体群間を争いながら渡り歩けるものではない。大中小それぞれの企業が、それぞれのニッチを強化することに努力を重ねているからだ。
そして印刷界でも自然界と同じように、大中小それぞれの個体群は社会的レーゾンデートル(存在理由)があるのだから、大中小それぞれのニッチを育てる努力が必要になる。それが人間の社会というものだろう。ところが、社会の変化、技術の変化の中で、ニッチ自身がどんどん変化するのだから、その変化への適応努力を怠った企業は脱落するのはやむをえない。
・大中小の「すみ分け」ニッチ
自然界はハト派とタカ派のように、弱者と強者の争い、強者同志の争い、侵入する者、逃げる者、そうした行為の中で地域ごとのニッチバランスがとれている。印刷界には本来、大中小それぞれの企業の「すみ分け」係数(販売一般管理費比率)があって、大中小それぞれの取扱品目を持っているものだ。
大企業が中規模業者の品目に手をだせば、係数が上がってしまい営業利益が下がり、赤字受注になってしまう。一部上場の大手企業(10%)、二部上場の大手(15%)、中規模企業(20%前後)、中企業(25%前後)、小企業(30%以上)という「すみ分け」係数は厳然として存在する。ところが現在の印刷界はこの「すみ分け」係数の壁を破り、混乱が続いている。大手だけではない、中規模が大手企業の品目に手を出せば、生産規模、技術のインフラが全く異なるから製造原価を下げることができず、従って「すみ分け」係数が下がらないから、大手との競争で直ぐに敗けてしまう。大と中との関係は本質的には中と小との間でも存在するものだ。
私は本来、印刷界は業者間のバランスをとり易い業界だと思っている。いまは「すみ分け」の壁を破って大中小それぞれが争っているが、いづれ過当競争の愚に気づき、みんなが新しい秩序を自然に作るようになると信じている。それぞれの業者が自分の能力を超えないように、自分のニッチの壁を破らないように努力していれば、印刷界は自づと「にぎやかな春、実り多い秋」になる。
ところが自然界でもそう簡単ではない。山火事、ひでり、洪水、台風など環境はどんどん変る。印刷界でも一般経済界、マーケット、デジタル技術など環境がどんどん変る。業際の壁は消えてしまったが、印刷と異業種との壁も融合をはじめようとしている。メディア間の争い(印刷と通信メディア、広告業、新聞業など)、POD(デジタル印刷)との争い、ネット企業(フランチャイズやチェーン店)との争い・・・・・何が出てくるか分らない。
その中で印刷業のニッチが小さくなれば、それこそ印刷産業は「静かな春、実りのない秋」ということになる。いま印刷界は天敵の出現を前にしてガードを固め、それこそニッチ戦略を考えなくてはならないのに、少々のマーケットの減少に驚いて、大中小の間で値下げ競争をし、体力の消耗戦をしている。これでは全くの自滅のプロセスに他ならない。
完
2000/11/19 00:00:00