本記事は、アーカイブに保存されている過去の記事です。最新の情報は、公益社団法人日本印刷技術協会(JAGAT)サイトをご確認ください。

日本語組版の決定版はできるのか?

フルデジタルが当たり前になった今日でも、日本語組版はくすぶり続けているテーマである。以前は組版の良し悪し議論が発散しても、一家言もって取り仕切っていた活版や電算写植のグルの威光が薄れたというべきか、DTPユーザ側とDTPソフト側の間の溝がうまらないようである。DTPユーザの多くは電算写植の時代の人とは世代代わりしていて、従来の「こうあるべき」組版が体にしみついているわけではないので、DTPソフトに依存する割合は増えた。

そのソフトを買ったままのデフォルト値で、どれだけできのいい組版をしてくれるのか、を問う傾向があるので、EdiColorやInDesignなど組版モードに関する細かい設定ができるソフトが出現しても、それらは組版の良し悪しの判断は利用者任せなので、今後の日本語組版の標準にはなりにくい。

従来から組版の標準を決め難いのは、組版に関する視点が3つあるからのように思える。つまりまずページの設計者であるデザイナとか編集者の立場と、組版作業者、それと組版システム開発者の立場がある。編集者とかデザイナの意見を聞いてみると、ページとか冊子全体のトーンが品質として第一であって、部分的に見ていくと、キモチ悪いところを避けたいという傾向がある。組版の良し悪しに関するアンケートをすると決して厳格なわけではなく、どこか一部に組版が徹底していなくても素通りするところもあるが、目だってトーンを乱す部分は修正を求める。

組版作業者は、ぶら下げが良いとか悪いとか主張しないように、自分の感覚を前に出すよりも、首尾一貫した仕事を品質と考えるようだ。昔の活版の職人は何らかの主張をしたかもしれない。写植の時代でも編集者よりは厳しい目をもって作業していた人はいたが、その人でも指定が無い部分まで立ちって自分のセンスを表に出して作業することは少ない。写植でそのようなことをする人は、どちらかというとデザイナと考えた方がぴったりする。

組版システム開発者にとっては、操作性や組版できる範囲、つまり自動組版をするロジックの幅と奥行きが品質かもしれない。幅とはさまざまなルビ、割注、数式など、追いかけるとどんどん用途の少ない方向へ行く。奥行きは個々の処理の特殊例などきめの細かさになる。ロジックにならないところは手でやってもらうような手動写植的機能はあまりつけたがらない傾向がある。

これら3つの立場を総合してソフトに反映するのが理想だが、それが難しい。各立場に固執していてはまずいことに気づいて、組版の良し悪しに関して読者の意見を聞こうと試みる場合があるが、これは何度も失敗に終わっている。それは組版の良し悪しが官能検査に終始しているからで、色の問題のようにサイエンスにできなかったからである。JISの行組版方法ではTeXのように「計って評価する」という方法も示しているが、自動組版のためには計数的な評価方法の試行錯誤がもっと必要になるだろう。

(テキスト&グラフィックス研究会会報 通巻149号より)

2001/01/16 00:00:00


公益社団法人日本印刷技術協会