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DTPの過去・現在・未来その1 DTPの発展を振り返る DTP前史 1980〜1984 DTPは1980年代半ばに出てきて,印刷紙面の作成をデジタル化する技術,文字や図形,画像を扱う技術の総称として使われている.1990年くらいになると,アメリカではDTPはほぼ従来の専用システムに近いものになり,それ以後は大型化,高速化,ワークフロー改善など,従来の写植製版業務の生産性向上というテーマになると,パッケージソフトのDTPの話ではなくなってしまった. 今日のDTPは,印刷用の紙面の作成をコンピュータを使って行うことの複合である.さらに,文字や図形,画像などエレメントと,紙でもホームページでもいいが情報を運ぶものとしてコンテナを考えると,紙の上だけに情報を作るとは限らず,ディスプレイ対象のものもこれからのDTPの技術と考えられる.そうなると今までDTPで扱っていた要素の呼び名とは変わって,エレメントとコンテナをオーサリングしていく技術というものになろう. そうなっていく理由はさまざまあるが,要するに情報は,原稿や写真になるよりも先にデジタルになっているという基盤の変化がある.DTPは,やはり紙から発生し,紙に至るものとしてあったので,そういうDTPはある意味では終わったという感じがある. 情報が最初に発生するのはコンピュータの中で,情報が蓄えられ,伝送され,加工されるのは全部コンピュータ内での処理になる.そこでの処理は,コンピュータによって情報の精度とか,画像で言えば画質を上げていくことだが,従来コンピュータは単に入り口と出口の道具に使っているだけで,処理に関しては人間のマンパワーやスキルに依存している部分が非常に多かった.これからは良い結果を生むための処理そのものをコンピュータで行っていくのであろう. 実際は,DTPも完成したわけではなく,やはり組版が不満とか,画質,生産性が足りないなどがあるが,それに対してどうすればいいかは,はっきりわかっているので,ほとんどが技術開発のテーマではなく,単に一生懸命頑張ってもらえばよい.今DTPの課題と言われているものは,今後DTPがチャレンジして切り開くものではないと思う. プレDTP 1985年にDTPが起こってくる背景として1982年時点の話と,1985年にDTPが最初に人前にどういう形であらわれてきたかと,その後に結局一段落ついた1993年頃にわけて見よう.
DRUPA82 今では当たり前だが,その時プリプレスの統合がこれからあるということが明らかになってきた.このときはWYSIWYGという言葉がまだなかった.したがって,画面を見て,画面で対話式に作業をしていくインタラクティブになると言っていた.
専用モジュール 例えば当時,アメリカの週刊紙,タイムやニューズウィーク,USニュース&ワールドレポートなどは,一応電子編集をしていた.しかし,例えばカラーページのカラーはモノクロのページ編集ではできなかったので,トリプルアイなどの場合はカラー製版のシステムにデータを流して,レーザーで刷版を焼くような,いわゆるコンピュータ・ツー・プレートにして全工程デジタルになるというコンセプトは出していた.今日実現しつつあるDTPも1982年の段階で,構想はでき上がっていた. しかし当然,今はレイセオンはない.当時の会社で今でも残っているのはゼロックスだけで,あとは全部吸収合併されたりした.専用ワークステーションはなくなっただけでなく,当時多目的に使えるPARCというワークステーションを作ったところもつぶれた.アポロも今はない. 実は,アドビはそのころ,専用ワークステーションの仲間入りをしようとしていて,社内の開発用の内部にPostScriptを使うことを考えていた.しかし,アドビがほかの会社と違ったのは,どうも今からハードウエアで競争しても仕方がない,ハードウエアの進歩はこれからまだ激しいし,リスクが大きいので,ハードウエアをやめたところである.
文字と画像 そのカラー製版もいろいろなモジュールの組み合わせになった.その中で,82年にサイテックスは文字組版をするTEXTAというシステムを出した.文字組版のワークステーション会社を買収し,文字と画像はこれから電子的に統合できると言い出した. アメリカの場合,新聞・雑誌の編集システムはATEXが非常に強力で,そこで文字編集して,それを写植機に出すことが一般的に行われていた.今でも行われている部分もある.サイテックスは,ATEXともつないでいく話をしていた. カラー画像をデジタルにして処理するようになると,何ができるかという話は,ほぼこのときに出ていたと思う.例えば,カラーマネジメントで,網点の太り方は印刷機によって違うので,校正と色が合わないなら,印刷機の網点の太り量をきちんとシミュレーションして,デジタルで出力する前にその分は差し引いてやればよいという話も,このときにしていた. 大日本スクリーンはシグマグラフを出してきたが,このときはまだ売っていない.後のCEPSも今はほとんどなくなったか,非常にビジネスを縮小したが,大日本スクリーンはその後DTPの時代になっても時流にのって今日に至っている.
写植の一般化 当時のコンピュグラフィックのCRT写植は,1981年にCG・NICという名前で日本語の明朝・ゴシックを扱うものも出ていた.1982年には写研がAPSマイクロ5という少し簡易型を出している.日本の写植システムで画面で文字を校正するものが出たのは1982年で,ワープロより少し後である.たしか,1,000万円以上した.つまり,日本は日本語のハンディがあるので,非常に大がかりなシステムを作っていた時に,アメリカは,写植はかなりこなれて,すそ野を追いかける時代に入っていた.
デジタルプリプレス デジタルでプリプレスは今後こうなるという話は大体出てきたので,そのコンセプトを使って,日本ではNIC社がCTPまでビジョンを掲げて売リ出した.やはりデジタルの最終にはコンピュータ・ツー・プレートだということで,刷版をレーザーで焼くところに一生懸命力を入れていた人が,当時EOCOMなどをやっていた,後のダンテクノロジーのトーマス・ダン氏であった. 一方,コンピュータ・ツー・プレートの大変革が来るよりもっと前の段階がいろいろ問題になるのだという考え方があった.CTPで生産性が上がる,コストダウンが図れることよりももっと,例えば編集とか,どういう媒体を作ったらいいかとかを考えて,そちらの戦略から電子化をすべきであるという意見があった.電子化は,単に工場の生産性を上げるのではなく,編集も含めて電子化をすべきであるという考え方をしていた人が,ジョナサン・シーボルトであった.その当時,シーボルト氏は写植システムのコンサルティングなどのニューズレターを出していた.ジョナサン・シーボルトは編集のための道具に着目していき,トーマス・ダンは出力の刷版を作るところに着目していった.1983年ころ,CTPのデモンストレーションがいろいろあった.
画像のデジタル化 まとめると,最初,専用ワークステーションを皆作った.その先にコンピュータ・ツー・プレートを行おうという考え方と,それよりは編集のサポートをして,どういう媒体を作っていくのだというところに電子化を使わなければならないというシーボルトの考え方と2つあった.どちらにせよ総合的に電子化するなら画像を簡便に扱えなければならないということが出てきた.
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