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著作権等管理事業法と福澤諭吉

今年の10月1日より、著作権等管理事業法が施行された。著作者に代わって集中管理団体が独占的に使用料の徴収などを行う現制度を見直し、許可制が登録制に改められた。

具体的には、著作権管理団体は1分野1団体と制定している「仲介業務法」を廃止し、財産的基盤があるなど一定の条件を満たしていれば著作権管理ビジネスへの参入を認めるというものである。規制緩和の一環として実質的に自由化することが主な目的であり、著作権使用料については、認可制から届出制に変更された。
これによって、これまで野放しに近かった日本画家などの美術作品をはじめ、ゲームソフトや写真、放送映像などの分野で、新たな著作権管理団体が発足する可能性が出てきた。

著作権の概念を、国内ではじめて提唱したのは、福澤諭吉である。福澤諭吉は自著「西洋事情」や「世界国尽」の偽版が関西で発行されるのに憤りを感じ、「版権」を提唱した。これが、明治8年に全面改正された出版条例「図書ヲ著作シ、又ハ外国ノ図書ヲ翻訳シテ出版スルトキハ三十年間専売ノ権ヲ与フヘシ、此専売ノ権ヲ版権ト云フ」制定の契機となったといわれている。

国内における著作権に関する法制化の流れは、およそ以下の通りである。
・明治2年 「出版条例」成立
・明治9年 「写真条例」成立
・明治20年 「出版条例」を改編して「出版条例」と「版権条例」に「写真条例」を「写真版権条例」に。それらとは別に「脚本楽譜条例」成立
・明治26年 「版権条例」を「版権法」に改正
・明治32年 これらを統合して、「著作権法」成立

上記のように「著作権法」が制定されたのは、明治32年(1899)のことである。この権利が認められる基盤となったのが、明治19年(1886)年にスイスのベルヌで開催されたベルヌ会議であったが、この当時、日本の著作権制度は、「文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約」(通称、ベルヌ条約)に加盟する水準に達していなかったため、オブザーバーとしてのみ参加した。
その後、日本では立法調査や草案作成が行われ、世界水準にまで高められた「著作権法」が公布され、ベルヌ改正条約に加盟したということになる。

それからしばらく後の昭和6年頃、ドイツのプラーゲ博士がドイツ人代理人と名乗って日本に現れ、著作権侵害を理由に多くの訴訟を起こしては示談に持ち込み、高額の著作権使用料の取立てを行うという事件があった。これが、世に言う「プラーゲ旋風」である。そのため、興業・出版・放送業界は恐慌状態に陥り、NHKですら昭和8年頃からしばらくの間、著作権が存在する外国人作曲家の音楽を放送できなかったという。

著作権の仲介業務法は、このプラーゲ旋風が契機となって設けられたもので、制定当時の著作権管理の実態に照らして法的基盤整備の必要性の高かった一定の分野(小説、脚本、楽曲を伴う場合における歌詞及び楽曲)に限定し、法的規制を行っていた。また、その規制手法は業務実施の許可制を通じて厳しい参入規制を設けており、一部において著作者委託先を選択する自由を制限する結果をもたらしていたといえる。また、許可を受けた著作権管理団体による不当な権利行使から利用者を保護するため、使用料については認可制をとっていた。

文部科学省の著作権審議委員会では、今回の著作権等管理事業法について、「近年の技術革新に伴い、著作物の利用方法によっては、管理効率や利用の円滑化を阻害することなく、多様な著作権管理が可能となりつつあり、著作者が自らの意思によって適切な著作権管理の方法や著作権管理団体を選択する自由を尊重すべきである」との見解を示しており、著作権管理団体およびその管理事業の透明性を確保することで、著作権が明確に保障されることを目指している。

福澤諭吉が著作権を提唱してから100年の歳月が経過したいま、著作権はようやくシステマチックに、そして自由に保護される環境が整ったといえるだろう。

2001/12/18 00:00:00


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