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写植フォントのオープン化(2)─フォント千夜一夜物語(3)

(株)写研へのプロポーズが不成功に終わったアドビ社が、次にアプローチしたのは(株)モリサワとリョービ(株)である。

まずリョービであるが、リョービも自社フォントを先が見えない不透明なDTPと、オー プンに使えるというPostScriptフォントの概念が理解できなかった。それは1986年ころ では無理からぬ話でもある。

いまでこそアドビ社は数千名の企業になっているが、当時は数十名のベンチャー企業で ある。しかも外国企業であることに不安があった。

リョービも自社の電算写植システムを開発し、専用のフォントを開発し販売していたか らだ。1986年ころまでのリョービは、手動写植機や電子組版システムを開発・販売していたが、いずれも出力は文字盤を用いたアナログ方式である。

1983年に、リョービにとって初のデジタル写植システム「REONET300」を発表し、販売 を始めたばかりである。もしDTPなるものが、デジタル汎用版下作成システムであるなら ばDTPはライバルになる。

そのライバルになるであろうアドビ社に、リョービ書体を提供することは「敵に塩を送 るようなものである」という考え方が強かった。この受け止め方は写研の経営陣も同様で あったであろう。

リョービに対するアドビ社の契約条件の内容は、PostScriptのType1フォントの共同開 発・販売である。Type1フォントの制作はリョービ側が行なうが、フォントデータのチェ ック検収は米アドビ社が行ない、そしてリョービが修正するというのが条件である。

当時リョービは、IKARUS(イカルス)システムを設備してデジタルフォントを開発して いた。しかしベジェ曲線を用いてのフォント開発ツールは未経験であるから、その開発パ ワーと開発コストは相当なものと思えた。

また当時のリョービのデジタルフォント開発能力は、自社システム用フォントのデジタ ル化に精一杯で、他へ向ける余力はなかったことも一因である。

●モリサワの英断
次にモリサワであるが、周知のごとく1987年2月にアドビ社とフォント共同開発と販売契約を結び、PostScriptフォントの開発に踏み切った。

当初社内的には、写研やリョービと同様な不安や疑心を抱き、反対も多かったようであ る。外部からも「モリサワは何を考えているのか」という意見もあったようだ。それはモ リサワも自社の写植システムを販売していたし、フォントも開発・販売していたからだ。

しかしモリサワの決断は先見の明があり、正しかったといえる。最初は様子見もあって 「リューミンL-KL」と「中ゴシックBBB」2書体の開発でスタートした。そして1989年末に、そのフォントを搭載したPostScriptプリンタ、アップルのレーザライタ「NTX-J」が発売された。しかしその前にモリサワフォントを搭載したPostScriptがある。それがNECの「PCPR602PS」であったことは、あまり知られてはいない。

その後1991年に3書体を追加、1992年に更に3書体が追加され、合計8書体がPostScript 対応の標準フォントの地位を築いた。

その結果、モリサワのフォントビジネス収入は人もうらやむほどになり、会社全体の売 上高と収益の向上に大きく寄与した。そして日本語DTPの普及は、モリサワの英断に負う ところが大きいといっても過言ではないであろう(つづく)。

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2002/05/04 00:00:00


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