本記事は、アーカイブに保存されている過去の記事です。最新の情報は、公益社団法人日本印刷技術協会(JAGAT)サイトをご確認ください。

タイプフェイスデザインと字体:文字表現の主張

JAGATでは、6月24日(月)「フォントの新たなニーズと動向」で、ハウスフォントやフォントカスタマイズのニーズとそれらに対応した動向をとりあげ、7月 5日(金)「書体の変遷と表現技術」では、書、木版、活字など文化的な背景と起源を持つ書体の変遷をとりあげ、また来る8月6日(火)は、「表外漢字字体表」とJIS文字コードの対応をとりあげる。JPC(Japan Publishing Consortium)も7月10日に「日本のフォントデザインとビジネスの現状」をテーマにセナミーを開催した。このところ漢字関係のテーマが多くなっているのは、漢字を使う側の環境変化により、今日的な視点で問いなおすべきことが多くなっているからであろう。

当用漢字が制定された時代背景、JIS 漢字が決められた時代背景というのは風化して理解されなくなるが、決められた字だけは残り、異なる背景で議論されるようになる。字形、字体、書体、デザイン差、フォント、文字コード、これらが複雑にからみあって、しまいに「いい加減、バッサリ」やりたい気運が高まる時期もあれば、新たな秩序を作ることで過去の一部が削ぎ落とされるとか、新たな混乱を呼ぶのではないかと、危惧が高まる時期もある。これはコンピュータ化という特殊状況で起った話ではなく、漢字というのは歴史的にそのような運命にあるのかもしれない。漢字活字が生れた背景も、康煕字典が生れた背景を考えても、同じようなことかもしれない。(このことは改めて近日中に原稿化予定)

JPCの講演は、(1)タイプフェイスデザイン・ビジネスと、その有り方、(2)フォントフォーマットやOSへの対応といったシステム面に対応したビジネス、(3)既存のフォントセットだけでは対応できない異体字利用に対応したビジネスの内容、というものであった。
これらは、フォントビジネスが、ともにコンピュータ上で文字を扱うという共通の土壌にありながら、多面的な問題点を内包していることが顕在化されたテーマであったといえる。

(1)にあたるのは、フォントビジネスの低迷が囁かれるなかであっても、タイプフェイスデザインに関心を持っているユーザーは存在し、新しいタイプフェイスデザインの需要はあり、フォントビジネスの衰退は回避不能なものではない、という視点から、字游工房および、FONT1000プロジェクトメンバーなどによる講演である。
(2)にあたる講演は、OCF、CID、OpenTypeとフォントフォーマットが混在し、OSが次々にバージョンアップされるなかで、果てしないフォントへの投資を避けるために、ライセンス契約によるフォントサポート(提供)の一本化を図るフォントワークスによるサービスの内容を説明したもの。
そして、(3)では、JISX0213、あるいはAdobe1-4といったフォントセットの普及が不透明であるなかで、いわゆる異体字に対応するサービスであり、ネットワークを経由し、約7万字の文字をサポートするというモリサワのサービス内容の説明である。

このうち、字游工房の講演は、これまでの写植文字に代わるゴシック書体として、雑誌出版社からの依頼により、新しいゴシック書体「こぶりなゴシック」を開発した経緯についての説明であった。タイプフェイスをデザインするにあたり、雑誌のデザイナーと編集者と1文字1文字を丁寧に作り上げていったという話もあった。

しかし新書体の良さを不特定多数の人に理解してもらうのは困難極まりない。「書体の変遷と表現技術」では、橋本和夫氏や澤田善彦氏が、書体を美しいと感じることは「慣れ」に基づいている、と共通して話されていた。
また、この「慣れ」と「美しさ」という問題は、タイプフェイスデザインだけでなく、あらゆるデザイン一般、たとえば黄金比が美しいと感じられるのは、古代から現代に至るまで、数多くの「モノ」がそれを作り出す道具の制約によってで生み出された「形」を見慣れていることから、その見慣れているものを美しいと感じるという永原康史氏の講演(テックセミナー「レイアウトデザインの表現技法」)においても語られていた定理である。
澤田氏は、「多くのユーザーはデフォルトの文字にも違和感を感じなくなってきている。世の中で普及しているものが、すなわち最も多く目にするものであり、ついには、それを美しいと感じるようになる。」と言う。これは正論であり、歴史的な視点からも、それを裏付けると思われる事象は数多い。

ここで気をつけなければならないのは、デザイナや編集者など印刷物を設計する立場と、読者の立場を混同してはいけないことである。作る側は「このように表現したい」というこだわりを持つが、読む方はその意図はわからず、慣れが優先するのである。このようなすれ違いがある中でも、フォントは作る側の道具として、文字表現の幅や奥行きを豊かにするために、開発され続けるのである。

前述のFONT1000プロジェクトは、タイプフェイスデザインに興味を持ったひとの手によって、自分だけのオリジナル書体1000文字を制作する、という企画であり、その書体のなかには、ほとんど手書き文字に等しいものもあり、規定の字体からは大きくかけ離れているものもある。 しかし、その文字には力がある。そもそも手書き文字は、古くから言われているように、個人の気質の現われでもあるからだろう。

FONT1000プロジェクトのなかにある文字には、「が」の濁点が下に付いているものもあり、これは、小学校の国語教育であれば、明らかにバツがつけられる字体である。画一的な教育の下では、正しいものと、そうでないものとして、一律に峻別されるのである。そこにはデザイン性は存在していない。

書き文字にアイデンティティがあるように、デジタルフォントのタイプフェイスにも、そして異体字の字体そのものにもアイデンティティは存在するはずである。当用漢字や常用漢字にあてはめられた漱石や鴎外の文面を読んだときに、彼らの「真意」が失われているように感じるのは気のせいだろうか。
本来ルビのない文章を、過剰なルビ付きで読むことに抵抗を感じるのは、ましてや仮名に置きかえられてしまった文字の羅列に読書欲を削がれるというのは、年寄の繰言なのだろうか。

文字表現のオリジナリティはアイデンティティの表現態様のひとつであり、基準に沿っていることだけを「よし」とする文化、簡単に読めることを「よいこと」とする文化からは、エネルギーは湧き出てこないように思えて仕方がない。

2002/07/13 00:00:00


公益社団法人日本印刷技術協会