あるカメラの専門家が、デジタルカメラによって撮る人の腕が落ちたというような発言をしていた。また誰でも似た絵になって写真が平均化したとも言った。だから人間の感覚や思考にそった道具としての機械式アナログカメラはなくしてはならないという。しかし似たようなことは機械式カメラでもオートフォーカス化とか自動露光などの仕掛けが登場したときにも言われていたと思う。
機械式アナログのカメラで、使い慣れたカメラから別のものに持ち替えると、出来上がった絵が異なって見える。カメラが好きな人なら、メカ的な違いがどこにあるか判って、新たなカメラの悪さをカバーする使い方ができるとか、新たなカメラのよい点も活かす事ができるのだろう。このようにシンプルなメカで成り立っている機械は、使う側がメカ特性をマスターしなければならないという「関所」がある。カメラが手に馴染むというのは、カメラが体の延長のようになることで、身体化とでもいえる。
カメラも技術革新による操作性の向上で、使う側に要求される基本技能が底上げされてきた結果が「平均化」だったと思う。メカの「関所」が大幅に減ったデジタルカメラもそれをさらに推し進めた。このように考えるとデジタルカメラは特別のものではない。しかしデジタルカメラは開発テンポが速すぎて、自分の体の延長のようになる「身体化」が追いつかないのだろう。
CGやバーチャルリアリティもみんな同じようなテイストになって鼻についた(今もあるが)。しかし技術が安定してくると、やはり個性が出せるクリエーターは生まれてくる。技術革新による技能の底上げや品質の平均化はクリエーターだけの問題ではない。むしろ製版のレタッチや印刷のオペレータの方が先に底上げや平均化は進んでいた。それが川上にまで及んだだけである。
つまりグラフィック表現の世界全体がコンピュータ化することで底上げと平均化が進行する。それによる画像情報の氾濫とそれらの料金の低下がまだまだ進むだろう。絵作りをする人は道具がコンピュータになっても、それなりに「身体化」した道具にして個性を出すことはできるだろうが、それらのデータが集まって加工する印刷制作側などはどうだろうか?
個人のスキルに依存していては会社の品質は保証できない。カメラマンがメカの特性をマスターするようなことをデータとして持って管理することが会社のノウハウになっていくだろう。その上で「平均的」な画像は人間の手を介さずに処理できるようにし、それ以上の画像は撮影者やレタッチの「意図」を汲んだ上で計数的な処理ができるようにならなければならない。これはどこかで聞いたことがある言葉だ。そう、製版スキャナの時代と同じようなことになっていくともいえる。
テキスト&グラフィックス研究会会報 Text&Graphics 201号より
2003/03/17 00:00:00