本記事は、アーカイブに保存されている過去の記事です。最新の情報は、公益社団法人日本印刷技術協会(JAGAT)サイトをご確認ください。

紙媒体に自信を持とう

塚田益男 プロフィール

2003/10/31
私は最近,別掲のような面白い統計表に出会った。これは政治情報に関するものだが,何も政治に限るものではない。経済情報,科学情報,医学情報など,高度な情報,解説や分析を要する情報についてはすべてが当てはまると考えられる。さて,ここで問題になるのは,表に見られる通り,インターネットの重要度が低いことである。何故こうなるのか私見を述べてみよう。

○政治情報とメディアに関する調査(2002年11月調査)
調査機関:NHK放送文化研究所
調査人員及び方法:3,600人,面接方式

▼第1表 政治情報への接触頻度
  よく見ている,時々見ている 余り見ない,殆ど見ない 無回答
テレビ 89.2 10.7 0.0
新聞 72.6 27.2 0.2
インターネット 12.0 73.9 14.1

▼第2表 政治情報の影響度
  非常に,ある程度影響 余り,全く影響しない 無回答
テレビ 83.1 15.1 1.7
新聞 73.9 23.8 2.3
インターネット 40.0 55.8 4.2
まわりの人 40.0 55.8 4.2

メディアの種類は昔からパッケージ系と通信系に分類されている。
もっと細かく分類する人もいるが,大きな括りとしては二つだろう。パッケージ系のメディアにはテレビ,新聞,書籍,一般印刷物,ディスク,AVテープなどがある。このメディアにパックされる情報は,発信者が発信しようと意図した情報を収集,分類,編集,加工などを行った大量の情報のものが多い。
この場合,発信者は自分が発信した情報のコンテンツが受信者にとって有用で,受け入れられることを期待している。そしてパッケージ系のメディアは多くの場合有料だから,テレビ会社,新聞社,出版社,広告会社,映画会社などは,常に視聴率や販売情報を気にすることになる。従ってパッケージ系の情報伝達は不確定多数の受信者に制作のウエイトを置いたメディアということになる。
一方,通信系のメディアは,インターネット,携帯端末を中心とした有線,無線の各種のデバイスである。会社で使われている社内用のネットワーク(LAN)も通信系だ。通信系の情報は即時性と相方向が大切になる。即時性と相方向を重視する情報となると,情報のコンテンツは恣意性の強いものになるか,送信の義務づけられたものに限られるだろう。思いつきや恣意性の強い情報の中でも極端なものは,女子学生のメール交換のコンテンツであるし,送信義務の情報とは社内LANのコンテンツだろう。勿論インターネットのホームページのように,不確定多数の受信者を意識しているもののあるが,殆どのものは無料の広告ページであるし,有料課金のものでも大きなビジネスになるものは少ない。すたわち,通信系のメディアとは原則として多数の発信者がいて,それぞれが特定の受信者と相方向で通信することに特長がある。このことは通信系のメディアはパッケージ系とは逆に,多数の発信者にネットワークのウエイトをおいたものということができる。

以上のように,パッケージ系と通信系の観点から高品質コンテンツに適したメディアを考えるとすれば,別掲の表の意味がよく理解できる。政治,経済,科学,医学などの高度な情報というものは,たとえ単発の情報であっても殆どの場合,関連情報が付随しているものであること,従って情報量全体が大きくなりやすい。また殆どの高度な情報というものは即時性の要求度は小さいものだから,たとえ接触度数を上げたいと思う場合であっても,第1表で見られる通り,発信者のスクリーンを通したものの方が情報を選択しやすい。すなわちテレビや新聞のようにパッケージ系のメディアの方が圧倒的に便利で読み易いということを数字が示している。勿論,学問的な情報検索が必要な時は,インタネートでライブラリーにアクセスした方が便利だが,単に情報に接触したいのであればパッケージ系の方が良い。
第2表が示すものは,その情報を自分の知的蓄積の中で加工し,自分の次の行動または知的展開に影響を及ぼすのに,便利なメディア選択は何かということだ。こうなると情報量は多い方がベターだからやはりテレビ,新聞,印刷物ということになるだろう。しかし,テレビの情報量は限られているし,一過性の送り放し(放送)だから,ウエイトは下がるだろう。その反面,インターネットなら過去の情報にもアクセスできるのでウエイトは少し上がるが,土台,大量の情報を読むのに適さないから16%にしかならない。一方,新聞は解説記事にも充分なスペースをとれるので,有用なメディアとして74%もの高い評価を受けている。

パスカルがいうように,人間は「考える葦」であり,学習能力があるのだから,情報加工という行為は今後とも絶えることはない。最近また電子ブックやPDAが息を吹き返したといって騒がれている。この種の電子デバイスは今後も手を変え,品を変えて現れるだろうが,所詮,人間に文字を書くことを忘れさせ,計算能力を奪う麻薬に過ぎない。コンテンツを創る,ワークフローを創る,ネットワークを創るという,創る楽しさを忘れて,ディスプレイの形態だけを追いかけても人間の進化は生まれない。
私のようにprint on paperを大切にしようという人物は,最近では化石のように言われる。しかし,〔読む,書く,考える〕という行為の中にこそ進化の芽があるのだ。話は少し脱線するが,私の会社では原則して「裸」の写真は印刷禁止になっている。営業マンは得意先から預かってきた写真原稿の中に,女性の裸体写真があれば受注を遠慮することになっている。数年前,ある得意先の社長に,錦明のモラルコードは会長の私が作っているのだろうと皮肉を言われたことがある。
営業マンの中には,会長が写真の場合はダメだというけれど,小説には写真よりひどい表現のものがいくらでもありますよ,と言う。私は次のように答えている。文章を読む場合,その文章からいろいろな思考とイマジネーションを行うが,それはその人の経験に合わせて十人十色になる。ところが写真の場合は誰が見ても同じで,思考とイマジネーションの余地がない。性に関するものは扱い方一つで汚くもなるし,性文化として美しくもなる…。
例が悪かったかも知れないが,要は私は文字や文章を愛しているということだ。即時性と相方向の情報伝達には携帯端末やインターネットは非常に有用なメディアであることを率直に認める。その一方,高度で高品質な情報を創り,それを伝達するためには,〔読む,書く,考える〕という機能が何より大切で,print on paperのメディアも不滅のメディアだということを自覚したいものだ。

2003/10/31 00:00:00


公益社団法人日本印刷技術協会