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印刷物の感性評価

社団法人日本印刷技術協会 副会長 島袋 徹

 明けましておめでとうございます。
 昨年の夏以降から日本経済も少しずつ明るい兆しが見えて来たようです。GDPも前年比プラスに転じており、このこと自体は企業にとって、あるいは個人生活にとっても喜ばしいことであります。しかし、今回のGDPの回復は設備投資と輸出の伸びに支えられたもので、一般政府消費支出、民間消費支出とも横ばいであったことから、我々印刷業界にとっては恩恵を受けることが少ない内容であったといえます。(JAGAT・FACT通巻158号より)そのため印刷業界は相変わらずの過当競争下で、単価ダウンを余儀なくされています。
この厳しい経営環境の中で企業が生き残るには経営革新をしなければならず、「印刷業は専門性を再構築してメディアプロバイダーへと業態変革を目指すべき」と提案されています。(東印工組・経営革新委員会資料より)

 本稿はそのような印刷経営の将来ということではなく、激しい変革に直面している印刷業ではありますが、長い印刷の歴史の中で変わることなく中心課題であり続ける「印刷物の評価・感性評価」につて述べてみたいと思います。
 21世紀に生きる私たちは生活する上での必要なものは殆ど確保し、次への対象を見極める価値観は多様化しています。このような社会環境では「感性」と呼ばれる様々な要素が重要になってきます。これからは色彩や音など人間の五感(視・聴・嗅・味・触)に関わる領域、さらにはライフスタイルや価値観など、人々の感性領域をうまく捉えることが市場競争力になると思われます。

 15世紀半ばに発行されたかの有名なグーテンベルク「42行聖書」を見ますと、活字印刷の本文にイニシャルや朱書きの彩飾が施されていて、実に個性豊かな作品になっているのに驚かされます。これはグーテンベルクの時代から『印刷物は発信された情報を受け手に心地好く伝えことが使命である』との考えに基づいて作られたからでしょう。印刷業は誕生した当初から情報発信者である顧客の意図を的確に捉え、受信者が好ましいと感じる「美しい」印刷物を作ることを生業としてきました。
 ところが印刷物全体の評価に用いられる「美しさ」を物理量で表すことは出来ません。したがって現在でも大多数の印刷物は見る人の感性の判断に任されているのです。すなわち、印刷の総合評価が感性的表現による情緒的把握のレベルでなされているのであります。

 印刷物の総合評価に使われた言葉を例示してみましょう。

  色がなじんでいる
  滑らである
  しっとりしている
  メリハリがきいている
  力強い
  重厚感がある
  透明感がある
  冴えてる
  くすんでる
  質感がある
  シズル感がある
  品格がある
  (凸版印刷・小嶋、渡辺共著・文化面から見た印刷表現技術より)

このような感性表現は、多くは印刷物で何を表現したいか、何を期待するかを論ずるときに使われます。すなわち、印刷物の発注者と印刷製造者の間で交わされるのですが、お互いが共感できるレベルまで達するには印刷物の色や形といった外面的な品質だけではなく、印刷によって伝達したい意図であるとか、表現したい美的価値観にまで踏み込まなければなりません。
 印刷業にはこのレベル到達した先人が大勢存在し、印刷物の発注者、製造者が生きる社会の感性が分かるイメージを表現してきたのであります。

 一方、印刷物は製造工程を経て作られる工業製品ですので、主観で左右される言語で工程を管理するわけには参りません。そこで印刷物の評価をもう少し物理量に置き換えやすい表現が使われますが、それを例示してみましょう。

  ハイライトの再現が不足している
  シャドウ寄りのトーンの分離が良くない
  むらがある
  グレイバランスが良い
  シャープである
  肌色のバランスが揃っている
  モワレが目立つ

このような評価言語であれば、印刷された画像属性との結びつきがある程度解明されているので、かなりの確率で製造工程へのフィードバックが可能になっています。
 しかし、肝心なのは印刷物を見て、例示したような評価が出来るか否かであります。 一人前の印刷人は、ハイライトの表現不足とはどのような状態を指しているのか、トーンの分離とは何なのか、グレイバランスの良し、悪しはどのように判断するか、モワレというが本当にモワレなのかを正確に理解し、判断できなければなりません。印刷人は自分の目で視て印刷物の物理現象を把握し、品質を定量化できる能力を身につける必要があります。それには徹底的に印刷物を視る「目視力」の養成が欠かせません。印刷物を見て色が美しいかどうかを表面的に判断するだけでは「目視力」はつきません。印刷物の物理現象と製造条件の因果関係を把握できるまで視ることです。

 近年、印刷物の係数評価も進歩しています。従来から普及していた濃度計においても精度が向上し、分光光度計、色差計、さらにはコンピュータソフトによる画像解析技術の導入など、印刷物を係数で評価する環境が益々充実してきました。しかし、これらは何れも印刷のある特性を数値化するものであって、印刷の「美しさ」を支える要素の評価はできても、「美しさ」全体を評価できるものではありません。印刷物の全体評価は人間の感性に頼らざるを得ず、正しい評価は「目視力」によってなされるのであります。そのため美しい印刷物を作るには「目視力」をもつ人材の育成が欠かせません。
 美しい印刷物作るには印刷に関して深い観察力、洞察力をもつ技術者の育成も重要です。

印刷不良の一つに「見当ずれ」がありますが、これに的確に対応するには以下に例示する「何故、なぜ」に解答を用意する必要があります。

  見当って何の事?
  見当精度とは何処をどのように計った数値か?
  見当の許容値はどの位か?
  見当の許容値は何を根拠に決めるのか?
  細線の見当の許容値はどの位か?
  スクリン線数によって許容値が異なるとすると、それは何故か?
  見当の決め方に理論的根拠を与えることは可能か?
  見当の標準化はどのように進められてきたか?
  見当の標準化を図るとき、ズレの閾値を決める理論はあるか?

  見当ズレと目視上の目立ち方(ズレ量と視覚強度)の関係はどのようになっているか?
  見当ズレと見た目の目立ち方が一致するとは限らないのは何故か?
  色版や2次色でズレの見え方に差があるのは何故か?
  絵柄のズレと見当ズレはどのように見分けるか?
  見当合わせを計器に任せるために整理すべきことは?
  見当合わせは、何版を基準にして、何版を合わせるのが合理的か?
  (文化面から見た印刷表現技術より)

印刷の製造現場で日常発生する「見当ズレ」を現場オペレーターは長い経験に裏打ちされた職人技で解決してきました。その状況にメスを入れなければ印刷現場はいつまでもブラックボックスであり続け、技能の世界から技術の世界へ脱皮することが出来ません。印刷物の刷られた結果を「目視力」によって物理現象として捉え、疑問点を「何故、なぜ」と徹底的に追求すれば技能の問題を技術の問題へと転換する糸口を見つけることができます。その解析、解決の場には物理学、化学、機械工学、人体生理学、心理学など広い分野の科学が持ちこまれるでしょう。印刷の製造現場には先人たちが築き上げた素晴らしい職人技が溢れています。これらを技術のレベルで解明し、さらに向上させるのは印刷に携わる技術者の責務であると思います。

 印刷業は「美しさ」という「感性」を基調に時代を超えて発展してきました。今後は紙メディアに留まらずクロスメディアをビジネスの対象に組み入れることになりますが、そこでも「感性」を的確に取り扱えれば、有利にビジネスを展開できるでしょう。
 印刷業はその歴史からみて「感性」を扱う点にかけては他産業より強い競争力を持っているのではないでしょうか。

2004/01/03 00:00:00


公益社団法人日本印刷技術協会