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活字書体から写植書体、そしてデジタル書体(7)―フォント千夜一夜物語(40)

文字情報の伝達の第1世代は筆書きで、第2世代は活字、第3世代は写植文字、第4世代は電子文字、つまりデジタル文字といえる。 そこで今回から活字時代に遡って、伝統的な活字書体について述べてみたいと思う。

昔、中国では甲骨・金石に文字を彫刻した。 その記録から印象物を得たいときは拓本をとった。 ついで複製を目的にして文字を凸刻した。 これが印刷の始まりである。

日本の近代印刷の始祖は本木昌造であることは周知のとおりである。 当時は世界の文明諸国と競争することはできないと考え、活字製造の研究に取りかかったが、木彫活字か胴活字で満足していた時代のこと、洋式活字の鋳造方法を知ろうとすることは非常に困難なことであった。

ところが本木昌造以前に電胎母型を研究開発していた人物がいる。木版彫刻師の三代目木村嘉平である。 木村嘉平は薩摩藩主島津斉彬の依頼を受けて、1854年〜1864年まで11年の歳月をかけて、鉛製鋳造活字を制作したと伝えられている。

現在一般の本文書体に明朝体が印刷されているが、最も早く鋳造されて普通活字の書体として使用されたものは楷書体であるという。 本木昌造の著書「西洋古史略」も全部楷書体で印刷されているし、明治初年の頃のものは、六号活字でさえ楷書体を用いたもの、といわれる。

本木昌造が鋳造活字の研究に着手したのは1848年で、活字の製造を本格的に始めたのは1869年であるが、研究不十分で成果をあげられなかった。 鉛活字の鋳造には、活字の原型となる凸型の種字を造り、この原型から母型(凹型字母)をとって鋳造機にはめ込み、さらに鉛を流し込んで活字(凸形)を制作する。

活字は母型に活字地金を流し込みでき上がるが、 当時活字の地金に使う鉛の質が良くなかったし、また鉛に混合するアンチモニーも純度が低いため、精密な美しい字面が得られなかった。 それに種字の彫刻師に適当な人物がいなかったので文字が不揃い、などの理由であった。

●「初号活字」名称のエピソード
本木昌造は、活字の販売をするには、まず活字についての知識を一般に与える必要があると考え、当時行われていた活字のサイズ(各号数)とその定価を掲載した日本最初の活字見本帖を作成し、関係方面に配布した。

最初は四号と二号活字を製造し、次に一号と三号活字を製造し活字の大小の号数を定めた。 ところがその後になって、中国の康煕字典を基にして活字を製造することになったが、この字典には最初に造った一号活字よりも更に大きい活字があり昌造は困惑した。

従来一号、二号と呼んでいた活字の大小については、活版業界に周知されているので、いまさら変更することは困難と考え、一号より大きい活字を「初号」と呼ぶことにして、見本帖にも初号活字の見本と代価を記載した。 業界では何も気づかずに、一号活字の上に初号活字があるということを知り、抵抗なくこの名称が一般化した、というエピソードがある。

日本の活字の寸法(号数制)は、本木昌造により長崎新町活版所において創始された。 その基礎になったのは、中国の上海の美華書館において実施されていた号数活字のシステムであり、それにならったものである(図参照)。

本木昌造は、美華書館に勤めていた技師のウイリアム・ガンブルという米国人が本国へ帰国途中に、長崎に立ち寄ることを依頼した。 そして製鉄所に雇用して活字と電気版の製造所を開設し、電胎母型製造を開始した。 これが世にいう「長崎伝習所」である(つづく)。

※参考資料「活字文明開化」発行凸版印刷株式会社、「明朝活字」矢作勝美著

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2004/02/21 00:00:00


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