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活字書体から写植書体、そしてデジタル書体(9)−フォント千夜一夜物語(42)

「築地明朝体」は第1次改刻につづき、1884年に第2次改刻が行われた。 このときから築地活版所の種字彫刻師は竹口芳五郎(1840−1908)により進められた。 このとき活字の精度が高められ、書体は著しい進展をみせた。

第3次改刻は1889年に行われ、明朝体の整備が一段と進み飛躍的な発展を見せた。 これが世に有名な「築地体」とか「築地明朝体」といわれた書体である。 次いで第4次改刻が実施されたが、このときは全体として大きな変化はない。

その後1903年に築地体の第5次改刻が行われ、名実ともに完成をみた。 その成果が「東京築地活版製造所の活字見本」である。

●秀英明朝体の誕生
「築地明朝体」と並び称された、もう一方の「秀英明朝体」はどうであろうか。

秀英舎(現在の大日本印刷。1935年に日清印刷と合併)は、1876年に佐久間貞一により創業された。最初は築地活版所から活字を購入していたが、1881年から自家鋳造を開始して活版製造所製文堂を創設し、一般に活字類を販売するようになった。

製文堂(後の秀英舎)が最初の明朝体をもつようになったのは、1889年頃の五号明朝体が最初のようである。 しかしまだそれほどの特徴がある書体ではない。 その後2回ほど改刻が行われ、1907年からの大改刻と取り組み「秀英明朝体」が完成された(図参照)。

秀英明朝体は築地明朝体から約6年遅れて完成された。 種字彫刻は名人といわれた沢畑次郎が担当したといわれる。 そして弟子の河村銀次郎に引き継がれた。

秀英明朝体の特徴は、築地明朝体に対して文字の「ふところ」を大きくとり、縦線の太さがやや細くなっている。 そのために、築地体に見られるような力強さは薄れ、優雅な表情を見せている。

ここで築地体、秀英体が完成されたわけではない。 両者ともその後も改刻は続けられていく。 しかし明朝体の特徴を根本的に変えるというものではない。 つまり1書体数千字の一揃えを改刻することは、まさに世紀の大事業である。 しかしこの結果、活版は黄金時代を迎えたわけである。

平かな・片かなの書体についていえば、平かなは和様からでたもので、明朝体の改刻とともに調和をはかりながら書体を整えてきたものである。 各社とも漢字書体に整合を取りながら独特な「かな書体」を揃えていた(詳細は後述)。

築地体や秀英体以外に活版印刷に貢献した著名な活字書体はいろいろ存在している。 1920年には岩田百蔵が創業した岩田母型製造所が、 活字母型の製造販売を開始している。 そして「岩田明朝体」は活版印刷業界のブランドとして広く普及し、その後写植文字盤にも採用され写植書体としても普及した。

その他のブランドに「日本活字」や「モトヤ」などが、活字母型製造販売業者として創業し、「モトヤ書体」や「日活書体」として活版業界に寄与している。 なおこれらの書体は活版業界にかぎらず写植業界の世界にも普及し、現代のデジタル時代には、デジタルフォントとしてDTPフォント環境に貢献している(つづく)。

※参考資料「活字文明開化」発行凸版印刷株式会社、「明朝活字」矢作勝美著・発行平凡社

図 秀英明朝5号(リョービ株式会社発行「アステ」創刊1号より)

フォント千夜一夜物語

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2004/03/20 00:00:00


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