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活字書体から写植書体、そしてデジタル書体(16)―フォント千夜一夜物語(49)

1960年代、日本の文化・産業が大変動をきたしていた頃、写植業界はまだ揺籃期であった。当時は印字された品質自体が低いにも関わらず、活版印刷技法の退潮をみて「活字よさようなら、写植よこんにちは」と大胆にも謳った時代があった。そして「ホットタイプからコールドタイプへ」と叫んだのもこの時代である。

しかし活字に代わり写植が文字組版の主役の立場になったが、オフセット印刷への技法そのものも変動のなかにあった。写植書体が印刷物に使われるようになって活字信奉者は写植書体を批判するようになった。

つまり写植明朝は活字体に比して弱々しいとか、オフセット印刷の文字組みはグレー色で読みにくく目が疲れるなどである。特に出版編集者は写植組版を嫌っていた。

●活字書体から写植書体への移行
1970年代以降、写植書体は新書体が続々と登場するようになった。活字の書体の種類は、明朝体、ゴシック体が主流で加えて楷書体など、書体設計の書風の違いが微妙に異なっている程度で、書体分類としては単純明解であった。

写植機は石井茂吉と森澤信夫により発明されたことは史実により明白であるが、開発当初に文字系統の完成に心血を注いだのは石井茂吉である。そして写真植字機研究所(現在の写研)が設立されたのは1926年である。しかし初期の写植機に搭載した明朝体の版下は、築地明朝の活字の清刷りにたよっていたようである。

当時の文字設計に携わったT・O氏によれば、「築地明朝活字の清刷りを取り48ポイントくらいに拡大する。すると画線のエッジがあらわれる。それを1字1字修正する」という方法で文字板を制作したという。

しかし開発期にはまだ写真の解像力が低かったので、活字書体の清刷りのままでは細部の表現に欠けた。また、字並びにも問題があった。後年には文字を拡大撮影し青焼きにして、墨入れの方法で文字板の元を制作したとある。

これが「石井明朝体」の始まりといわれる。解像力問題の対処方法としては、明朝体の細線部を太くし、太線部を細くして、細線と太線の差を少なくし、なおかつ起筆、終筆部の抑揚(アクセント)を強調している。

字並びの問題は、字枠(仮想ボディ)に対する文字の大きさ(字面)を、やや小ぶりにして字間の安全性を保っている。このようにして実用化された写植明朝体は、活字に対してやや毛筆の筆勢を回復した柔らかなものになっている。

これが「石井明朝体」のはしりで1933年に完成している。後の「石井明朝体(OKS)」に相当する。長年写研が写植業界のリーダーシップをとってきたので、この「石井明朝体」を含む石井書体が、写植書体の代名詞となっていたといっても過言ではないであろう。

編集分野の写植に対する不満の解消は、石井茂吉と別れた森澤信夫が大阪に設立したモリサワ写真植字機製作所(現在のモリサワ)が、文字板を自主制作するにあたってモリサワ独自の書体と、従来の活字会社との連携を図っている。

文字に関しては後発になったモリサワが需要者の希望を入れる形で踏み切ったもので、自社開発を先行した後に、1962年に日本活字と提携して活字書体の写植化に先鞭をつけた(つづく)。

※参考資料:「アステ」リョービイマジクス発行、「明朝活字」矢作勝美

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2004/07/03 00:00:00


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