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PCと共に育った新しい読者の時代

日本のパソコンの代名詞であったNECの98(PC-9801)が受注を終了させ,その歴史を21年で終えたという昨年9月のニュースは一つの歴史の幕引きであると同時に,その21年という時間の幅の中で,パソコンの日常化と共に生まれ育った最初の世代が,すでに成人していたのだということに気づかせてもくれたのだった。
ちなみに任天堂のファミコンも1983年に登場しており,1987年には携帯電話がレンタル形式で登場している。そこから起算しても17歳である。
今の社会には,一生パソコンに触れないで過ごしてしまう層と中途でパソコンに出会い習得した層と生まれながらにパソコンが当り前にある層の3つの層が並存している。
そして生まれながらの層の一番上が,あと10年もすれば30代になり,生活者としても消費の大きな担い手となり,労働者としても中核になってくる。それはビジネスのさまざまな局面で,決定権を持つボリュームゾーンになり始めるということも意味する。

この数十年デジタル技術は,長い歴史を持つ紙の文化のさまざまな機能をデジタルに置き換えてきた。鉛筆と消しゴムとハサミと糊と定規と,そして印刷機と製本機と……紙を媒体として機能させるためのさまざまな道具をデジタルの中に置き換えてきたということである。
デジタルが日常化する以前に生まれ育っていた層にとっては,それら置き換えのプロセスが多大な利便性を供することは理解しながらも,新しい道具の使い方を改めて習得するという困難さと,そこから大きな文化が損なわれるのではないかというこわばった感覚を拭い去るのに時間がかかったのではないだろうか。

しかし一度知ってしまった利便性を生活の中から追い出すことは難しい。例えばパソコンの登場を待たずとも,コピー機が登場する以前と以後をちょっと想像して見ればそれは明らかだろう。複製することができないということは,必要に応じて手で何度も何度も書いていかなければならないという,今では想像することすら難しい作業が日常的にあったわけである。

だから今の日常でそのような過去に思いを馳せることはほとんどなくなった。そして新しい利便性の登場が紙の需用に拍車をかけたこともあった。だが,コピー機,パソコン,そしてパーソナルプリンターにインターネット,携帯電話という一連の利便性を供する機器が登場してくる中で,明らかに文字を手書きするという習慣は激減した。日常から「手書きの文章」がどんどん失われつつあるのである。

その一方で,携帯メールやチャットに象徴される「おしゃべりの文章化」が日常絶え間なく生み出され絶え間なく読み書きされる社会になった。
コミュニケーションの中で,直接人と会うことのプライオリティが一番高く,次に手書きの手紙,電話と続いていたかつての社会と,直接会うこととネットやメール,そして電話の中にはっきりとしたプライオリティがなく,アナログとデジタルがもはや対立関係にない形で成熟化し始めた今の社会とでは,一見同じ「読み手/書き手」でもその受け取られ方の意味がまったく隔絶していると言っても過言でないのである。

そして,メール,ブログをはじめとするネット上のどのような文章も,簡単に検索でき簡単にコピーでき,そしてその瞬間瞬間で読み取られ消費されている。そういう接触スタイルを当り前のものとして生きているのが,パソコンと共に育った世代である。
そういう状況の中で,紙,そして本が新しい価値として「新しく選び取られている」という状況が生まれてきている。コミケの例を出すまでもなく,自費出版,同人誌の新しい文化は紙とインターネットを横断的に活用しながらすでに根づきつつある。

出版業界の中で,携帯が読者を奪ったと言ったきり,そこで思考停止してしまう議論がよくある。しかし長い歴史を持つ紙と本の文化の文脈とは一旦断絶したところで生まれ始めたとも考えられるこれらの動きが,実は10年後の大きな「印刷ビジネス」を生み出す核になるのかもしれないのである。
この層には,デジタルと紙を対立項で捉える感覚がない。デジタルと共に紙も手書き文字も本も,平等に発見しうるスタンスにあるのである。その中から新しい紙の活用文化も生まれつつあるのである。

経営層向情報サービス『TechnoFocus』No.#1352-2004/8/23より転載

2004/09/11 00:00:00


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