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活字書体から写植書体、そしてデジタル書体(28)―フォント千夜一夜物語(61)

『「本明朝-Book」の訴求ポイント』

世のなかに明朝体と称する書体は数えきれないほどあるが、いまさら何故「本明朝-Book」を取り上げるのか、という理由について説明したい。「本明朝-Book」の「Book」とは、欧文フォントでいうボディタイプ(本文用書体)の意味で、何にでも使える明朝体ではなく、本文用に適応した「明朝体」という意図で開発している。

「本明朝-Book」の誕生を語る前に、「本明朝」が写植用書体ではなく、元は金属活字用として設計された印刷用明朝体であることを述べたい。市場では「本明朝」は、活字感覚を甦らせた力強さがあるとか、紙面に対する黒み(テクスチュア)が可読性を高めている、などといわれる所以である。これが後年に写植用として使われ、さらにデジタルフォントとして変貌したという歴史がある。

リョービ印刷機販売株式会社(現リョービマジクス株式会社)の前身である、有限会社晃文堂が創立されたのは1947年のことで、活字母型販売会社の設立である。これが後の欧文活字・母型製造販売会社、そして写植機及び印刷機販売へと展開していくことになる。

終戦後の1945年頃、物資欠乏の時代に印刷業界は印刷資材が枯渇していたが、書物と活字に飢えていた時代であったから、粗悪な紙でも黒いインキがついていれば本は飛ぶように売れた。

当時は活版印刷全盛時代であるから、活版印刷用の金属活字の需要は盛んであった。戦後の1946年〜1950年頃は、欧米の新たな思想と情報が溢れ、それらを吸収しようというインテリ層の知識欲は旺盛であった。書物といえば和書だけではなく、インテリの間では洋書の需要も盛んであった。

このような時代背景として、印刷用欧文活字や和文活字は飛ぶように売れたのである。多くの印刷業者は欧文活字や和文活字を求めて列をなしたという。1976年頃になり写植機がページ物の文字印刷に使われるようになると、ユーザーは写植書体では満足できず、写植機メーカーの写研は活字メーカーと連携し活字書体を文字盤化した。そして1962年に「晃文堂明朝」、1964年に「モトヤ明朝/モトヤゴシック」、1968年には「イワタ細明朝/イワタ太ゴシック」などを文字盤化し発売している。

●「本明朝」の前身、「晃文堂明朝」の生い立ち
晃文堂は、1953年頃「機械式活字母型彫刻機」、いわゆる「ベントン母型彫刻機」を導入して、電胎母型から彫刻母型へと転換しようと1957年には生産体制を整えていた。最初から欧文パンチ母型の製造・販売に取り組み、欧文活字の「晃文堂」の名を業界に広めた。

パンチ母型は「機械式活字母型彫刻機」を用いて、母型とは反対の父型を軟鋼に彫刻する方法である。その父型を焼入れして母型のマテ材に打ち込み母型とする製造方法である。欧米では欧文書体のパンチ母型が一般的であるが、画数が多い漢字の場合は技術的な困難が伴っていた。

その後晃文堂は、和文活字の彫刻母型の開発を手がけた。そして1958年頃に「晃文堂明朝」の8ポイント母型を発表した。晃文堂は1966年にリョービ機械(旧菱備製作所)と提携し、小型オフセット印刷機の総発売元となった。そしてリョービ系列に入り「リョービ印刷機販売」と社名を変えた。

そして1970年に写植機の開発・販売に取り組んだ。ハードの写植機をリョービ側で、ソフトの文字盤の書体開発はリョービ印刷機販売が受けもつという、二人三脚の体制で写植業界に乗り入れた。この写植機に「晃文堂明朝」が搭載され発売されたのである。これを機に活字書体の明朝体から写植機の明朝体に変身し、そして「本明朝」の誕生へと姿を変えたわけである。(つづく)。

※参照:リョービイマジクス資料「本明朝Book」より


【参考】プリプレス/DTP/フォント関連トピックス年表
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2005/03/05 00:00:00


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