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既存メディアの限界と、個人の立脚点

聞き手 日本印刷技術協会 副会長 
和久井孝太郎

和久井: 村木良彦氏は数人でTBSから出てテレビマンユニオンという日本では草分けとなる番組プロダクションを作られた。またプロデューサー養成の塾など人材育成も図ってこられた。私が関わったのは、NHKが組織としてハイビジョンの実験番組制作を始めた時に、外部のプロデューサーとして、ことに日本人として最初から非常に積極的に関与された。最近はメトロポリタンテレビのプロデューサーでご苦労された。
技術的には放送も通信も差はない。しかし、放送の文化、通信の文化の差は歴然とある。これから地上波デジタルが広がっていくが、そういうことについてどうお考えか。

村木良彦氏: 1980年代はじめのニューメディアブームのときに、ニューメディアのニューとは何かということを考えて、ニューというのは越境することだろう、お互いの間の境界線を越えることだろうと気付いた。その頃、通信とコンピュータは完全にドッキングしていた。放送はまだその外にあったが、やがて放送も近づいてくるだろうというのは見えた。
やっと、放送と通信、コンピュータというのが、それまで全く違う事業で、ビジネス分野であったものが一緒になってきた。ちょっと時間がかかりすぎたという気がする。日本の場合は既存の放送の、近づくのを遅らせようとするパワーが結構強かったので、遅々とした歩みになってしまったという感じがする。しかし、基本的にはおもしろい時代になってきたのではないか。

「EPIC 2014」という、世界で話題になっているソフトがある。2人のアメリカ人が作った8分くらいの映像である。インターネットで公開されているので、誰でも見ることができる。2014年までの未来図である。最近、「2015」という続編ができた。グーグルとアマゾンが合併して、グーグルゾンという会社になってニュースを始めるという設定である。
EPICというのはソフトの名前である。世界中の何十億というブログを全部集めて、そのキーワードを整理して情報を作るというソフトだが、それを使って、グーグルゾンというところが巨大な勢力になっていく。
マイクロソフトはNBCと組んだインターネットニュースをアトランタオリンピックのときから始めていたが、もうとうに辞めてしまっている。しかし、マイクロソフトも慌てて対抗してニュースを始める。2000年代の後半、2010年前後に、グーグル、アマゾン連合とマイクロソフトの2大ニュースの大決戦になる。その決戦場には、CNNもテレビニュースも新聞社も、土俵にすら上がれないという設定である。

2014年は、ニューヨークタイムスがついていけなくなって、その戦争から離脱する。オンラインから撤退してオフラインになってしまう。紙に戻る。紙媒体に戻って、少数の人に質の高いニュースを届けるメディアに徹するという、一応格好を付けた撤退宣言をするという設定である。
新聞社やテレビ局が土俵にも上がれないというのは非常に信憑性があるという感じがしている。それはともかく、もしかするとこれからの数年は、メディアにとって一番おもしろく変わるときかもしれない。

和久井: メトロポリタンテレビは新しいメディア変化に対応して、非常に哲学的に考え、積極的にやってきたのではないか。

村木氏: ハイビジョンのプロジェクトの途中に、東京に新しくテレビ局ができるという話が、突然具体化してきた。「新しいテレビ局をどういうイメージで作るかということを考えてくれ」と最初は頼まれて、「これはおもしろい」と思って、いろいろ考えて東京都に提案した。
東京も1つの地域であるということで、地域にこだわったステーションということと、デジタルステーションにしようということを考えた。既存のテレビ局をサンプルにしない、別な価値基準を持ったテレビ局にしようという、言うなれば理想的なことを考えた。テレビ局に対する不満がたくさんあったためである。

東京都はそのときは非常に乗って、「これはいい」と言ってくれた。当時の郵政省も、「将来のデジタル化時代の1つの試みとして、こういうテレビ局があっても面白い」ということで、全面的に賛成するということになった。
東京のニュースを中心にするということで、ビデオジャーナリストというのを初めて放送局で採用した。ビデオジャーナリストというのはまだいない時代だったので、「映像記者」として40人ほど育成した。今はほとんど退社したがあちこちで活躍している。

MXテレビが開局したのは95年11月だが、95年4月1日からパソコンで先に開局した。インターネットステーションの方が先だった。インターネットステーションとして開局して、その6ヵ月後くらいに地上波を開局した。その頃、まだインターネットで何かをやれるとは、誰も考えていない。やっとWebができて、インターネットと連動した番組を幾つか行った。

ニュースだけはデジタル化したが、放送はアナログでやっているので、でき上がった最後のところでアナログにスイッチ1つで転換するという方式で始めた。そのままやっていれば、スイッチを戻せばいいので、1銭もかからずにデジタルステーションになれたはずだ。 開局までの約束は果たしたので辞めたが、テレビに戻るつもりはなかった。その後にMXテレビを引き継いだ人たちが全部アナログに戻してしまった。

和久井: コミュニケーションの世界、あるいは番組、メディアの世界で活躍する人を育てるという問題を、村木氏はどういうふうに考えるのか。やはり人だと思うが。

村木氏: 自分のソフトがなく、人のソフトを金の力で何とかしようということが多くあるが、既にそういう人の失敗は見えているという気がする。ソフトは人である。人を育てるのは、10年はかかる。10年計画でやらないとだめである。

私は、1人の人間がどういう場所で仕事をするかというフレームには4つのポイントがあると考えている。第1は国家、言うなれば政治である。放送の制作者であれば、免許制度であったり、さまざまな放送法に規定されているようなことが、国家との関係にある。第2は市場である。NHKでも民放でも、市場との関係は無視できない。第3のポイントはテクノロジーだと思う。これもどんどん変わっていくもので、日々変わって動いている。その中でどういう距離を取ってどういう関係でやっていくかというのは非常に重要なことである。

第4のポイントは、ある種の社会概念というか、社会理念である。報道のような仕事をやりたいと思っている人なら、ジャーナリズムという概念がある。例えば、客観性という近代ジャーナリズムの理念というか規範の上に成り立って新聞ジャーナリズムがあり、新聞ジャーナリズムを手本にしてテレビのジャーナリズムが出発したが、客観・公正・中立というような概念が今崩壊している。
テレビは独自のジャーナリズムをまだ作っていないうちに、今度はその先にオンラインジャーナリズムが来る。市民が発信するシビックジャーナリズムと呼ばれているようなものが出てきたり、さらに先の動きが出てきたり、そういうふうにジャーナリズム概念こそ変わっていく。

客観を書くことはあり得ない。なぜならば、人に何か情報を伝えるということを人間がやるというのは、何を選ぶか、何を選ぶかで、既にその段階で、ニュースにならない、新聞に書いていない、テレビで放送されないものは、現実になかったことになる。しかし、実は重要なことがいっぱいある。
ここ10〜20年の間に世界で起こった非常に重要なことの一番最初の兆候というのは、地震や津波といった災害は別として、報道されていない。オウムも地下鉄サリン事件まではそうだった。報道されたのは事件になってからで、その前に殺人事件もあったが、兆しのときには報道されていない。

客観的な報道とは客観を装った主観でしかない。「神様がいる、しかも1人の神様がいる」というのは養老孟司氏が言った言葉で、「客観報道」と言っている人は宗教家だと「バカの壁」に書いてあるが、私もそう思う。
客観報道が増えたのは新聞が広告を取り始めたときで、そもそも新聞は言論機関だった。こちらの主張を人に買って読んでもらう。しかし、反対の主張をする人にも買ってもらうためには、中立を装わざるを得なかったという商業的な問題である。そういう概念というか、世界的な規範をどうとらえているかである。

以上の4つのポイントを四角形としてその中に自分がいるとして、そこから上方にパブリック、公共性があり、逆に下側に線を延ばすと世論とか大衆の欲望というようなどろどろしたものがある。この錐体の中からそれぞれとどういう関係を取るか、距離を持つか、あるいはどういう関係を持てるかということが総合的に問われるだろう。NHKの問題や、ETVの問題等、これは直接的には政治との問題である。政治を変えてもらったらどうか、あるいは受け皿がどうかというふうな裁判になっている。

しかし、多分メディアに限らず、言うなればさまざまな分野でプロフェッショナルが機能していない、プロフェッショナルの不在ということがあって、プロフェッショナルとは何かということが問われてくる。ソフトを作る人間は、メディアワークショップのときから言っていたが、そういう関係性をどう作っていくかというところが一番で、私はこのごろ、外に越境したり、また戻ってきたり、内外自由に動き回りながら物事を考えるということが多分必要になってくるのではないかと考えている。

和久井: 若い人を育てていくときのポイントは何か。

村木氏: 学生に言っているのは、「疑問を持つこと。疑問を持て、信ずるな」と。あるいは、「テレビで報道しないことはいっぱいある。むしろ、ごく一部しかテレビではやっていないのだよ」と。いろいろなものを見ていれば気が付く。例えば、新聞を5紙くらい買って見出しを見ただけで、同じ記事を見ただけで、違いはある。テレビのニュースも、別な媒体で見てみることで、気が付くことはたくさんある。そう難しいことではない。

渋谷スタジオでのメディア・ワークショップで私は3年だけ塾長をやった。あとは大山勝美氏に引き継ぎ,その7〜8年後に辞めた。あそこを巣立って一本立ちした人は多い。映画は是枝裕和氏をトップに3、4人いるし、テレビのディレクターはたくさんいる。電通、博報堂といった広告会社で仕事をしている人もたくさんいるし、ネット関係にもたくさんいる。

メディア・ワークショップのカリキュラムというのは、そのとき一番忙しく仕事をしている第一線の人に来てもらうということがテーマであった。その人に直接会って話を聞いた。出版の世界の人もいたし、技術の人もいたし、ディレクターやプロデューサーもいた。作家もいた。山田太一氏とか、一流の人がやってくれた。
いまだに、年に2回くらいは集まって飲み会をやる。そうすると、会社やテレビの世界、ネットの世界でみんなそれなりの仕事をするようになっていて、そこでの情報交換がおもしろい。メディア・ワークショップは組織としては終わったが、本当のメディア・ワークショップは実は今始まって進行中という感じがする。

和久井: 今の学生は能力はありそうだ。いろいろ知っているし、頭もいい。もう少しセンスを発揮して社会貢献ができそうだと思うが、なかなかそういかない。何か足りない。

村木氏: いい仕事をしている人の話がいい。テレビで言えば、プロデューサーで一番重要なことは、いい作品をまず見るということである。だめなものを見てもだめなので、いいものを見る。それから、いい人に会う。いい仕事に就く。いい仕事に就いていい仕事ができたときに得られるものと、だめな仕事に就いてお金にはなっても、得られるものは違う。

これだけ情報がある時代なので、探せば小さなところで、どこかではやっている。どこかの地方局でやっているいい番組があるという噂があったときは、そこに電話して「見せて下さい」と言うと、作った人間にとって嬉しいこともあるので、必ず見られるように計らってくれる。コピーを送ってくれるとは限らないが、見る機会を与えてくれる。見ることができないということはない。

いい人に会えるチャンスもたくさんある。例えば、今一番売れっ子のドキュメンタリー映画監督の森達也も、しょっちゅうあちこちで上映会に来てしゃべるということをやっている。1,000円か2,000円か取られるかもしれないが、そこに行って質問すれば話ができる。聞けばきちんと答えてくれる。あるいは、終わったあと、食い下がっていけば、「飲みに行こうか」ということになることもある。すぐ次の仕事を紹介してくれるということはないだろうが、その人の考え方や情熱というものがあれば機会はたくさんあるものである。

和久井: 若い人に励ましとなるお話を、ありがとうございました。

村木良彦氏プロフィール 昭和15年宮城県生まれ 東京大学卒業後、昭和34年TBS入社。昭和 45年にTBSを退社して萩元晴彦氏らと「テレビマンユニオン」を設立。TBS時代からチャレンジ精神を一貫、数多くの新鮮なテレビドキュメンタリーの制作を手がける。NHK以外では最も早くからハイビジョンの活用などにも取り組んだ。 メディア塾を主催、後進の育成にも情熱を傾けた。

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2006/06/24 00:00:00


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