社団法人 日本印刷技術協会 副会長 島袋 徹
これまで新年を迎えるに当って、前の一年を反省して次の一年の計画を立てるということを何度も繰り返してきました。しかし年齢を重ねてくると何となく先が見えるような気分になるので「次の一年」と短く区切るのではなく「これから先ずっと」を考えたくなります。同時に「前の一年」ではなく「来し方」と旧いことまで想ってしまいます。
自分の好きな言葉は年を経る中で変わるので幾つかありましたが、「基本に徹し先端を走ろう」が私の長い会社生活の中で得心がいき、仕事を進める上での基本姿勢を培った最も好きな言葉です。
私は1960年に大学を卒業して凸版印刷に入り会社生活を始めました。時恰も高度経済成長の只中にあって、会社も右肩上がりの業績を確保しながら、量的にも質的にも急成長を続けていました。その環境の中で、私は「先んずれば人を制す」を好きな言葉として掲げて、我武者羅に仕事に取り組んだものです。
1984年、鈴木社長が会社経営のスローガンとして「基本に徹し先端を走ろう」という言葉を凸版印刷の役員以下、全社員に提示されました。
当時、私は活字組版をコンピュータ化するCTSの開発に取り組んでいました。先端技術の代表であるコンピュータではありましたが、100年以上の歴史を持ち、職人技が集大成された活字組版に取って代わるまでには至っていませんでした。活字組版の成果物は、職人が技能と感性を駆使して作る可読性の優れた誌面です。そのような誌面では、読者は視覚からくる違和感がないため、円滑な思考を持続しながら読書が出来ます。CTSでも見出しの配置、行頭行末の微調整、ルビのつけ方、割注、頭注、脚注の組み方などは解決しましたが、欧文混植、数式組み、表組みなど幾つかの本質的な問題が残されていました。さらに製造部門で非常に重要であるコストや納期の面でも問題がありました。これらは、CTSの開発着手から10数年が経っても完全には解決できないほどの難題でした。「もうこの辺で良しとしよう」と妥協しかかっていたところへ「基本に徹し先端を走ろう」という言葉を頂いたのです。活字組版の基本ルールを上辺だけなぞる「基本に不徹底」なシステムでは「先端を走る」ことなど到底出来ないと厳しく指摘されたように感じました。この社長スローガンの下で、システム開発グループは目標を一層高く設定して開発を続行したのです。
「基本に徹し先端を走ろう」という言葉は、鈴木社長は単に技能を技術に置き換える際の心構えを説いたのではなく、もっと深い意図をもって提示されていました。
当時の日本の社会は高度経済成長期から安定成長期に移ってきていましたが、社会全体に浮わついている様相が見受けられ、凸版印刷もその渦中にあるのではないかという危機感を持たれたのです。例えば、企業領域の拡大、売上の増大を続ける過程で、工程のミスや製造のロスがあっても成長の陰に隠れて目立たず、真の体質改善が後手に回っているのではないかと言う危惧です。そこで鈴木社長は、基本とは精神的には「初心」であり、更に言うなら「倫理」であると説明されました。
私はこの言葉に出会ってから20年近く会社生活を続けて様々な場面に遭遇しましたが、常にこの言葉に立ち戻って自分の判断基準としました。例えば、会社を維持・発展させるには顧客を含む社会全体からの信頼を得なければなりませんが、それには会社の価値観・倫理観に基づく行動を実践しなければなりません。すなわちコンプライアンスの実践ですが、これなどは将に「基本に徹する」ことが出発点となります。
ITの普及、発展により印刷業界は顧客と共に「先端を走る」ことを要求されています。印刷で培った情報伝達の基本を省みず、先端技術と称するものを振り回すだけでは顧客の満足は得られず、会社の将来を危うくしてしまいます。情報伝達のクロスメディア化という変化の中で、紙メディアを事業の中心に置く印刷企業の将来を考えるとき「基本に徹し先端を走ろう」という言葉の真意を理解することが益々重要であると感じています。
さて、会社生活の第一線から離れたので、身の回りに起こることを個人の立場で考えることが多くなってきました。そうなると好きな言葉も変わってきます。 最近では「知足安分」が好きになっています。 世の中は物が溢れ、情報が渦巻いています。それに一々対応すると、 物や情報に振り回されて終いには自分を見失うことになりますが、そのようにならないのが「知足安分」です。
「知足」とは足ることを知るで、自分の置かれた状況に不平不満を抱こうとしない精神状態をさします。 足るを知るとは物や情報を得てそれに満足することではなく、むしろ有り余る物や情報を遠ざけて、あるがままの現実に満足することです。 「安分」とは分に安んずるで、今ある状況は天が授けた運命的なものであり、無理をして欲を出せば却って苦労を招くので、現状をそのまま素直に受け入れた方が良いという意味です。
身のほど知らぬ欲望に取り付かれないように心がけて、「知足安分」で心静かに毎日を過ごしたいと考えています。好きと言えるまでには至っていませんが、気になる言葉に「色即是空」があります。これなどは何とか理解をして好きな言葉にしようと書物を読んだり、講座を聞いたりするのですが、すればするほど混迷の世界に入り込んで一向に抜け出せる気配がありません。これから何年かけても、結局「好きな言葉」にはならず「気になる言葉」で終わるでしょう。
2007/01/03 00:00:00