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DTPの衝撃と定義 1986-1987

DTPの過去・現在・未来 その3
1997年7月31日T&G研究会ミーティング「DTPの発展を検証する」より (社)日本印刷技術協会 理事 小笠原 治

1985年のDTPの出現とは、ANPAという新聞の展示会に、Macとレーザライタと、ライノトロン101というイメージセッタが出てきた時のことをいう。当時のハイエンドの専用システムは完成間近だったのに比べて、MacのDTPシステムは非常にプアーなもので、ハイエンドのリッチなプロダクション環境に匹敵するようになるにはその後10年ほどかかった。当時の幼稚なMacDTPを見て衝撃を受ける人などほとんどいなかったのである。

DTPよりもPostScriptというコンピュータ言語の方が先に有名になり、1986年になるとアメリカのプリプレス業界は皆PostScriptを話題にしていたし、事実PostScriptに対応したハイエンドの機器開発に向かっていった。それとDTPとは違う。最初にライノタイプがPostScriptで作った出力サンプルを印刷して配布していたことを前回書いたが、ライノタイプの狙いはどんな出力ができるかではなく、要するにプリプレスのシステムはパソコンとネットワークを使ったものになって、そこで文字入力や編集から出力までできると言っていたのである。このモデルを最初に提示したのがライノタイプであった。

実はこれに類したものとしてMacの前年の1984年にAppleはLisaを出していた。LisaのQuickDrawでグラフィックを作って写植に落とし込むのは、コンピュグラフィックなどが出していた。しかし先行したものが成功せずに、なぜライノが成功したのか。ライノはPCやMacで編集している世界に自分の写植機を売ろうとしていた。もう1つの、コンピュグラフィックとか他の会社は、写植機を使っている人が写植機のフロントエンドとしてパソコンを使うという考え方をしていた。

この両者は対象とするマーケットの大きさが違う。写植機を使っている顧客対象にLisaを使わせるのと、MacやPCが使われているところに、出力機としてイメージセッタを売るというのではメーカーのスタンスが全然違う。コンピュグラフィックなどが図版編集にLisaを使うのは、簡便な装置で版下の生産性を上げる目的だが、ジョナサンシーボルト氏はこれは将来えらいことになると考えていた。

印刷製版業界は主として写植のフロントエンドにパソコンを使う見方をしていたが、シーボルト氏の見方が違っていたのは、今までの出版やプリプレスの技術と、いわゆるコンピュータの技術が衝突をし始めているという点である。これは印刷の歴史の中の非常に大きな時代変化をPostScriptなりDTPが起こすと解説をした。そしてシーボルト・デスクトップ・パブリッシング・カンファレンスを1985年に始めた。1988年くらいにはシーボルト氏は「第4の波」と言うが、このときには「印刷とコンピュータの衝突」と言っている。

DTPという言葉はジョナサンシーボルトが、知人でありPageMakerを作ったアルダスの社長のポールブレナードなどとやりとりしながら、作ったのであって、世間ではそれほど知られていなかった。日本に入ってきた当時は大学の先生が卓上出版と訳していたほどである。しかし1985年にはアメリカでDTPの3要素は揃った、日本では日本語のPostScriptプリンタがなかったので、この年をDTP元年にできなかったし、また要素が欠けているためにDTPの概念も分かり難かった。

DTPの3要素とは、第1はWYSIWIGのプラットフォームで、Macなどがあてはまる。すでに他にも多くのWYSIWYGはあったが、Macが一番安いという点で衝撃であった。第2はPDLであるPostScriptで、これはその時点でハイエンドでも取組みが始まっていた。第3がパソコン上のシュリンクラップされたレイアウトソフトであるが、これが実際には一番遅れていた。当時のPageMaker、ReadySetGoは今のワープロ以下であり、当時のワープロユーザは魅力に思えたかもしれないが、プロにとっては全くたいしたことはなかった。

アプリケーションが大体追いかけて出てきたのが1987年くらいである。これはアドビのIllustratorという非常に画期的なものが評価され、一時はDTPの代名詞ともいえるものだった。それから専用システムで動いていたソフトをMacに移植を図ることがおこった。実はアメリカではPageMakerよりも高度なアプリケーションがかなり最初から移植されていった。例えば、新聞用のシステムや広告制作のシステムなどがMacで出てきている。

クオーク社は、もともとクラリスのワープロをOEMで作っていて、その前TimGillはシンセサイザーをやっていたようだ。このときに新聞用のチラシ広告用パッケージ用にプログラムをOEM提供をしていたと思う。そういうものがほかにもあって、プロの世界でも本格的に使えるIllustratorのようなソフトが一部に定着し始める。それと合わせて将来はDTP環境が良くなっていくだろうという議論が起こり始め、まだ製品としては現れていなかったが、ベンダー各社はDTP対応の開発を始めていた。

こういった雰囲気の中で、シーボルト氏は「第4の波」の宣言をした。これはプリプレスの機械化の歴史を振り返って、DTPを位置付け、将来を見とおしたものである。確か当時ハヤリでもあったカールセーガンの展開方法を真似ているようにも思えたが、DTPの必然性を確固として打ちたてた宣言であった。

その1 DTPの発展を振り返る DTP前史 1980〜1984

その2 無視された夢想家  DTPの出現 1985年

2000/03/06 00:00:00


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