日本の電算写植は、開発が1960年代から始まり、1980年代以降に大活躍し、21世紀初頭には殆ど姿を消してしまった。入力はパソコンになり、編集はDTPソフトなどになり、ファイナルフォーマットはPDFになり、出力はCTPになったので、専用の装置は何も必要でなくなった。これは産業のあらゆる分野で起こった変化と同じであり、電算写植も例外ではなかったことになる。
1990年代において「電算写植vsDTP」の戦いのように見えたことは、実はそれまでの産業用コンピュータシステムが、パソコンの処理能力向上の挑戦受けていたのだと解釈できる。専用機のプログラムを、ワークステーション→パソコンと移植していって生き残った例は大変に稀であったのは、共通の理由がある。「電算写植vsDTP」のような代理戦争では、先輩の電算写植の方が未熟なDTPよりも機能において勝っていることは明白なので、その差が縮まり難いと考えがちであった。
しかし専用機やワークステーションというハードウェアがパソコンのハードウェアに負けてしまえば、電算写植は「梯子を外された」状態になるので、維持すること自体が難しくなってしまう。Sunのようなワークステーションベンダーはサーバ製品に特化することはできても、ワークステーションの上にクライアント・アプリケーションを載せているベンダーは行き場を失う。これを避けるには、例えば開発期間が2年なら、2年後のパソコンの性能を想定してソフトウェアの仕様を決めなければならない。
折りしも「2000年問題」を控えて汎用機やワークステーションのシステムからパソコンへの切り替えが前倒しで行われたことで、パソコン需要の拡大と高性能化が20世紀末に猛烈に進んだので、マイクロプロセッサを軽視していた多くの専用システムベンダーは一斉に開発が追いつかなかった。
専用システムは高速処理を特別なハードウェアで解決しようとしたが、パソコンの進化をともに担っていたApple、Adobe、Microsoftの方がフォント表示などベーシックなルーチンに関してはハンドアセンブルで最適化をするほどになって、専用システムの先を行ってしまった。開発期間の見誤りのもうひとつの例は、AppleとIBMがUNIX相当のOSを開発するのに手間取っている間に、WindowsNTがエンタプライズ市場に普及してしまったことで、パソコンお世界も寡占化の土台ができてしまった。
パソコンが勝ったのでDTPが支配的になったとはいっても、DTPの組版は完成したわけではなかったが、組版は人々の関心事ではなくなったように見える。しかしハウスルールを持った発注者は一握りで、そもそもどこかに立派な組版アルゴリズムが存在していたわけではなく、電算写植の開発現場にいろんな組版ニーズが集積したからこそ組版アルゴリズムを確立したといえる。DTP化されていない組版アルゴリズムは未来へ残された遺産のようなものである。
物質としてのハードウェアは寿命のあるもので、いつまでも残ることはできないが、そのハードウェアが何を実現しようとしていたかという「人の営み」の奥にある文化的側面は絶えるものではない。そこから将来に役立つ何かを見つけるのがこれからの課題だろう。
テキスト&グラフィックス研究会 会報 Text&Graphics 2007年5月号より
2007/07/15 00:00:00