「百聞は一見にしかず」ともいうように、眼からの理解は得られやすい。人は自分の目で見たことは真実だと思う傾向がある。印刷の色再現でも、実物はこんなんじゃなかった、というのは自分の見た記憶を頼りにしている。しかし他人の眼にどのように映ったのかを直接知るすべは無い。
赤い紙を見て、私が「赤い!」というのと、他の人が「赤い」というのは、赤という言葉が共通であるだけのことで、どんな赤なのかはお互いに知らずに居る。加齢で水晶体が黄変して青が見えにくくなった人は鮮やかな青を感じることはなくなっているはずだが、過去の記憶も手伝って鮮やかな青だと思っているかもしれない。
人の色の認識はかなりフレキシブルで、写真では色かぶりになるところが、色順応によって「こんな色のはずだ」という色に調整した結果を見てしまう。つまり光の成分の少々の変化に関わらずに色の恒常性が保たれる仕組みになっている。
こういった処理のある部分は眼球の近くで、また眼球から脳に至る神経細胞の回路によって、また/あるいは脳に入ってからの処理で行われると考えられている。この臨機応変な色の見え方を知ると、眼は人間の体の中では小さな頼りない器官にすぎないと思えてくる。
しかし眼の仕組みという点では、錐体細胞自身は同じ物質でできているので、光の波長の吸収は誰でも同じように起こっているはずだ。ただ網膜の各錐体細胞の数や分布には個人差がある。また神経細胞の回路の個人差もあるだろう。一人の人でも右目と左目では色の見え方が少し違うという例も多いと思う。
左右の眼の差はいろいろあるので、利き目が使われているはずだが、金属や光沢のあるものでは右目と左目では少し見る位置が異なっただけでも2画像の差が大きくなるので、脳が1枚の像にまとめる以前に、この2画像の差からキラキラ感を得ているのだろう。左右をブレンドして1枚にしてしまった方がキラキラ感は減るように思う。
また目を凝らすと次第によく見えてくるように、見方で「見え方」も変ってしまう。要するに脳に残る画像や色の印象は、デジタルカメラで撮られたRGBデータのような安定したものではなく、眼で得た光の刺激をもとに、その時々で神経細胞や脳で処理した結果であって、他人の印象とは比べようがない。
このことは色を見る機能は生来的に備わっているのではなく、生後の早い段階で形成されるものであることであり、開眼手術のあとでモノクロ映像から次第に色を見分けられようになることと符合している。乳児は4ヶ月くらいになると、大人と同じように見えるようになるといわれる。色覚の形成はそれまでのことであろう。
幼児期に形成される色覚は成長後も影響を与えるものである。その後2歳くらいまでの幼児のおかれた環境が特定の色とイメージの結びつきを作るといわれている。つまり人がいう、色のきれい・汚い、好き・嫌い、望ましい・望ましくない、などはその時の体験の影響を受ける。例えば親なり社会が「きれい」という色はきれいだと思うようになるはずだ。
また恐怖体験などが特定の色と結びつくことなども起こるという。色に関するパーソナリティの形成が外的要因で起こるわけだが、これは個人的な体験と社会的な体験に分かれる。自然環境や社会的な体験が色に関する文化差の原因であると思われる。
こういった基本色名を突き止めようとしたものでは、BバーリンとPケイのBasic Color Termsが有名である。いろんな民族や部族の色に関する言葉を採取して分析すると、最初に明暗の区別があって、次に赤、次に黄or緑、青、茶‥となるという研究で、進化的にもまた開眼手術後も、おそらく幼児の色識別もこの順序のようだ。これらは何か生理的な理由が考えられるようだが、これをベースに多くの色の表現が脳の中に派生していって、何百という色を区別するようになるのだろう。
2才までの幼児が言葉を覚えるのと色を認識するのとは同時に行われているようだ。その後も言葉を通じて色を思い浮かべるとか、色を見た時に当てはまる言葉を捜すという経験が積み重なって脳の中の色名空間が補強されていく。 基本色名の意味は、先に覚えた色が記憶の中でも優先順位が高いということではないだろうか。優先順位が低い色は、その色の言葉が示す色自体が曖昧であることになりはしないか? 色には恒常性がある一方で、揺れ動く色覚もあるように思える。
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(2007年8月)
2007/08/09 00:00:00