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平成フォント誕生物語─フォント千夜一夜物語(12)

初めて日本語PostScriptフォントが誕生した後、1992年出荷のMacintosh「漢字Talk 7」 のTrueTypeフォントの登場、日本語Windows3.0の「WIFE」フォント、日本語Windows3.1 の「TrueType」へとフォントテクノロジーの変遷は目まぐるしい。

少なくとも1992年までの日本語フォント環境は、専用ワープロにかぎらずパソコンでも、 またDTPの世界でも貧弱な状況であった。いい換えれば、1992年代以降になって印刷用に使えるマルチ・フォント、スケーラブル・フォントの時代になったといえる。

ところが1978年のワープロの登場、1983年の電子組版、1985年のDTP誕生以来、コン ピュータや電子機器メーカーなどからデジタルフォントの需要が高まってきた。

特にDTPなどの分野に高品位のアウトラインフォントの必要性が高くなっている。これ に対してフォント入手が困難という、フォントメーカーに対する不満が発生していた。 元来日本では、欧米のようなITCやBitstream、ライノタイプ、モノタイプなどのよう な、フォントをデザインしビジネスを目的とする企業はなかった。

●平成フォント開発の社会的背景
写植メーカーは、自社システムの写植機用文字盤の販売、また活字・母型メーカーは活 字・母型の販売は行っていたが、書体を開発してデザイン字母の商取引はしていなかった。 つまり「フォントメーカー」と呼ばれるものは、印刷業界における写植メーカーや活字・ 母型メーカーなどが主体で、フォント所有者のことである。

現在では、これらのフォントメーカーの大半が、競って フォント・ビジネスを行っている。つまりフォント需要家達に、ドットフォントやアウト ラインフォントのパッケージ・フォント販売、フォント・ライセンスなどを積極的に行っ ているのである。フォントメーカーは、昔では考えられないほどに様変わりしている。

しかし、1990年ころまでは、文字は閉鎖的な印刷の世界に存在していたから、コンピュータ関連の機器メーカーやソフトメーカーなどは、高品位の字母が欲しくても入手できない状況にあった。

このような社会的背景から「文字フォント開発・普及センター」が設立されたわけであ る。これは旧通産省工業技術院の電気・情報規格課のイニシアチブにより、約1年間の準 備委員会活動の結果、1988年(昭和63年)9月に誕生された。

大手コンピュータ・メーカー、大手電子機器メーカー、大手印刷企業、写植機メーカー など25社による発起人会が開かれ、その後運営委員会が設立された。運営委員会は「財団法人 日本規格協会」に属し運営されることになった。この運営委員会のもとにフォント開発・普及のために開発会員51社が参加し「開発委員会」が発足した。

●第1期フォント開発事業「平成明朝体」
1989年(平成元年)にスタートした第1期フォント開発事業は、「明朝体」と「角ゴシ ック体」の開発を計画した。そこで明朝体/ゴシック体のデザイン・コンペティションを 行うことになり、フォントメーカーを広く公募することになった。

第1次の明朝体デザイン・コンペは、リョービイマジクス(株)の応募した「新明朝体」が、 43社の開発会員による選考の結果、最多得票を得て1位入選した。平成元年に誕生したことから「平成明朝体」と名づけられた。

従来の明朝体と類似性のない、中細明朝(W3のウエイト)でオリジナルなデザイン・コ ンセプトというのが応募条件であった。横組みに適し、縦組みにも併用できるもの、そし てプリンタなどの電子機器に使われることを考慮するなどの要素が要求された(デザイ ン・コンセプトは後述)。

ところが契約上の制作期間は、1989年4月から1年間で約13,000字のアナログ原字お よびアウトラインフォントを制作・納入することであった。

13,000字とはJIS X0208に補助漢字がプラスされた文字数であるが、このスケジュール は今までのフォント制作の常識を超えたもので、不可能に近い日程であった。しかしでき ないといえば権利を放棄することになる。

制作体制はデザイナーを含めた、リョービ/リョービイマジクスのフォント関係スタッ フのほとんどが、平成明朝体制作に全力を投入することになった。ここから産みの苦しみが始まったわけである(つづく)。

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2002/09/28 00:00:00


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