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活字書体から写植書体、そしてデジタル書体(19)―フォント千夜一夜物語(52)

編集出版分野の写植書体に対する不満は、モリサワにより解消された。つまり自社制作のモリサワ書体と、活字会社との提携による二通りの行き方を採用したからだ。

●活字明朝体の復活
モリサワは、1962年に日本活字工業と提携して活字書体の写植化に先鞭をつけ、その後錦精社、岩田母型、モトヤなどと提携し、この4社の本文明朝体を写植化している。これらの明朝体は活版印刷業界では定評がある書体であるから、やっと編集分野の出版書籍類に対する写植組版への不満は緩和され、受け入れられるようになった。

これに刺激された写研も1964年頃から新聞活字と、モトヤや岩田母型の活字書体の文字盤を製造販売している。特にモトヤ書体については、1980年頃までに明朝体(M2、M4、M8)の3種類と、ゴシック体(G4、G8)の2種類を文字盤化している。

ところが、後発のリョービ印刷機販売(現リョービイマジクス)は、1975年頃モトヤ書体の明朝体4段階(M1、M2、M4、M8)とゴシック体2段階(G4、G8)を文字盤化している。リョービが写植機を製造販売するのは1960年代後半であるが、この頃には写植の技術レベルがソフトおよびハードともに上がっていた。

リョービ/リョービイマジクス(以下リョービという)は、写植の先輩である写研やモリサワの写植書体にとらわれることなく、また写植書体とか活字書体ということに惑わされることなく、将来の写植書体を見すえて科学的な検討を加え、当初から高水準の写植書体の開発を心がけていた。

このコンセプトを押し進めたのがリョービ書体で、「RM1000明朝」(佐藤敬之助)であり、「本明朝」シリーズ(杉本幸治・詳細は後述)、そして「ナウシリーズ」(水井正)などである。特に「本明朝」は活字書体の良さを取り入れた、新しい写植明朝体として業界の好評を得ている。

● 創作書体の登場
写植各社は、基本書体の開発を充実していくかたわら、1960年代から70年代にかけて活字書体を写植化し、写植書体の多様化にある種の見通しをもったようである。これまで日本の印刷文化は明朝体、ゴシック体以外には、漢字の歴史的書体の楷書体、行書体、宋朝体、行書体、隷書体などであった。

ところが、このシリーズで解説したように、1962年には創作書体として「タイポス」(グループ・タイポ)が誕生している。写研がいち早く文字盤化して販売し、斬新なユニークな書体としてセンセーショナルな反響があったが、この書体は残念なことに「かな」だけで漢字は契約上の問題で実現せずに、真の評価が得られなかったのは惜しまれる。

タイプデザイナーの意欲と、写植業界の新書体開発の機運とを、うまく形にしたのが「石井賞タイプフェイス・コンテスト」である。1970年より隔年に開催されていたが、写植書体の代表的タイプフェイスとして評価された「ナール」(中村征宏)や「スーボ」(鈴木勉)、「スーシャ」(鈴木勉)などが続々と誕生している。

一方のモリサワも営業政策上、写研に対抗できる書体を文字盤化する必要に迫られ、タイポスに対して「OH」(大谷四郎)、ナールに対して「じゅん」(三宅康文)、スーボに対して「アローRステンシル」(三宅康文)などを開発している(図参照)。

1975年に写研では、明朝体とゴシック体の最もウエイトが太い書体として、「大蘭明朝体」と「ゴナU」(中村征宏)を発表している。特に超特太ゴシックの「ゴナU」は、現代的な印象をもつ最も強い書体として、グラフィックデザインにおける広告や見出し書体に不可欠な存在となっている。

※参考資料:「アステ」リョービイマジクス発行、「文字に生きる」写研発行

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印刷100年の変革

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2004/08/25 00:00:00


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