印刷博物館で4月25日から7月20日まで開催された「名著誕生展 ヴァチカン教皇庁図書館Ⅲ+」は、過去に発行された書物の中から、各時代の文化に影響を与えたものや時代を超えて読み継がれているものを厳選して紹介することによって、印刷が社会に果たす役割を示す企画展であった。その概要を紹介する。

本展は、ヴァチカン教皇庁図書館の蔵書から哲学や科学などに関する書物8点を借り受け、さらに印刷博物館が所蔵する書物など合計66点を展示する催しであった。そしてタイトルにある「名著」とは、本展では次のように定義した。
・社会に強烈なインパクトを与えた
・大量に印刷出版された
・常識を超えた流通と購買を促した(ベストセラー本を含む)
・他の創作活動に影響を与えた
・時代を超えてなお現代人に訴える力を持っている
・稀覯書(世に出回る数が非常に少なく、入手困難である本)
会場は3部構成で、紀元前から現代までの各時代に書き著されたものを、関連する資料などとともに展示した。以下では、展示順に沿って筆者の印象に残った書物を紹介していきたい。
第1部 はじまりの名著
ここでは紀元前の哲学者や宗教家などの教えを伝える書物を紹介した。この時代、知識は弟子への口承で伝えられていたが、やがて写本や書簡に文字として残されるようになった。そして活版印刷や版画の技法が普及することで大量に複製され、より広く伝わっていった。
会場では、古代ギリシャを代表する哲学者ソクラテスに関する記述が含まれた『プラトン著作集』、江戸時代初期に木活字で印刷された『大般涅槃経』、ルネサンス期に思想が再評価された古代ローマの哲学者ルクレティウスの『物の本質について』などが展示された。
▲
『プラトン著作集』(「ソクラテスの弁明」を含む)
(プラトン著、マルシリオ・フィチーノ注釈/1484年/印刷地:フィレンツェ/印刷者:リーポリの聖ヤコブ印刷/出版者:ニコラウス・ラウレンティウス/活版・手彩色/ヴァチカン教皇庁図書館蔵)
ソクラテスは著書を残さなかったが、弟子のプラトンらが自身の書物の中にその教えを記し、後世に伝えた。展示ページは「APOLOGIA(ソクラテスの弁明)」。古代ギリシャにおいて国家が認める神々を軽視し、若者を堕落させたという罪に問われた法廷で、自らの弁護のために行った議論を記したものである。
『大般涅槃経』
(巻第33/ブッダ(釈迦)/1639(寛永16)年/印刷地:江戸/印刷者:天海/活版(木活字)/印刷博物館蔵)
ブッダの遺訓や涅槃の様子を伝えている。展示ページ左から8行目には代表的な教えである「一切衆生悉有仏性」の記載があり、これは生きとし生ける者全てが仏になれる可能性を持つという意味である。なお、天海は天台宗の僧侶で、寛永寺を設立したことで知られている。
『物の本質について』
(ルクレティウス/1483年/印刷地:北イタリア/ジローラモ・ディ・マッテオ・デ・タウリス写字、ジョルジョ・スキアヴォーネ彩飾/インク・手彩色・羊皮紙/ヴァチカン教皇庁図書館蔵)
ルクレティウスは紀元前の共和制ローマ期の哲学者。本書には、世界は空間と原子からなるとする「原子論」が記されている。長年忘れ去られていたが、1417年に南ドイツの修道院で写本が発見され、ルネサンス期の思想に影響を与えた。本書は15世紀の写本で、ローマ教皇シクストゥス4世の出身であるデッラ・ローヴェレ家の紋章が扉絵下部に描かれていることから、教皇に捧げられたものとみられている。
第2部 近代の名著とは
17〜18世紀のヨーロッパでは自然科学が急速に発展した。同時に活版印刷術および木版・銅版技術の進化によって複雑な数式や精緻な図版を用いた学術書の発行が可能になり、最新の研究成果がより多くの人に知られるようになった。
会場では、科学者自らが出版に関わった例として、イギリスの科学者ロバート・フックによる科学書『ミクログラフィア』を紹介した。そのほか、イギリスのアイザック・ニュートンによる『プリンキピア』、視覚障がい者向けの最初期の書物『地理学の基礎』なども展示された。
▲
『ミクログラフィア』
(ロバート・フック/1745年/印刷地:ロンドン/印刷者:ジョン・バウルズ/活版・銅版/印刷博物館蔵)
顕微鏡で観察した生物の精巧な図版が33点掲載されている。フックは画力も持ち合わせていたため、自ら銅版挿絵の下絵を描いた。展示ページにはアブの頭部を正面から見た拡大図が掲載されている。
『プリンキピア』(部分拡大)
(アイザック・ニュートン/1739年/出版地:ジュネーブ/出版者:ジャック・バリローほか/活版・木版/印刷博物館蔵)
自然哲学者・数学者・物理学者・天文学者・神学者であったニュートンが、月や惑星の動きを万有引力で解説した書物。展示されているのは第4巻の万有引力に関するページで、数式が活字で組まれている。
『地理学の基礎(視覚障がい者のための地理入門書)』(部分拡大)
(ギリエ&デュフォー/1819年/印刷地:パリ/エンボス/印刷博物館蔵)
18世紀のパリで、今日でいう盲学校を設立したヴァランタン・アユイは、自ら視覚障がい児のために筆記体の文字をエンボス加工で浮き上がらせる手法も考案した。展示された書物もこの手法で作られたものである。ただし、さまざまな形の文字を一文字ずつなぞりながら読むのは困難であったため、同学の生徒だったルイ・ブライユが、6点の組み合わせで文字を示す「点字」を1825年に考案した。
第3部 これも名著? ここにも名著!
ここでは19〜20世紀において哲学・科学・芸術などの各分野で起こった新たな潮流に関する書物を、前後編に分けて紹介した。
前編ではヨーロッパで出版された書物から、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』、オーストリアの作曲家モーツァルトの遺作であるオペラ「魔笛」の楽譜、古代ギリシャの幾何学書を英訳した『図解幾何学原論』などが展示された。
▲
『ツァラトゥストラはかく語りき』(部分拡大)
(フリードリヒ・ニーチェ/1893年/出版地:ライプツィヒ/出版者:ナウマン書店/活版/ヴァチカン教皇庁図書館蔵)
ニーチェは後世の哲学者や思想家に多大な影響を与えた著作を数多く残した。代表作とされている本書には、「超人思想」「永遠回帰」などの思想が、隠者ツァラトゥストラの説教という形で書かれている。写真の上から1行目に「Ich lehre euch den Uebermenschen(超人というものを教えてあげよう)」の記述が確認できる。
『魔笛』(部分拡大)
(ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト/1805年頃/印刷地:ウィーン/印刷者:グラーベン化学印刷所/石版/印刷博物館蔵)
それまで貴族や教会のためのものであった、今日でいうクラシック音楽は、18世紀半ばから啓蒙思想の影響を受けて民衆にも浸透していった。この時期の音楽は古典派と呼ばれており、モーツァルトはその代表的な作曲家である。「魔笛」(K.620)はモーツァルトが亡くなる1791年に完成させたオペラであり、自身が入会していた「フリーメイソン」の自由・平等・友愛の思想を表現したものといわれている。なお印刷には、18世紀末に発明された石版印刷が用いられた。水と油の反発を利用したこの手法は、のちにオフセット平版印刷へと進化した。
『図解幾何学原論』
(ユークリッド著、オリバー・バーン訳/1847年/印刷地:ロンドン/印刷者:チジック・プレス/活版・小口木版/印刷博物館蔵)
紀元前3世紀頃にギリシャの数学者ユークリッドが著した『幾何学原論』は、現代に至るまで幾何学の基礎とされている。本書はイギリスの土木技師で数学者のオリバー・バーンが英訳したものである。図版は青・赤・黄で色分けされ、一目で分かりやすい表現となっていることが当時としては画期的であった。この印刷に用いられた木口木版とは、ツゲやツバキなど密度があって硬質の木を輪切りにした断面に、ビュランと呼ばれる彫刻刀を用いて図柄を彫った版のことを指す。緻密な表現とともに多色刷りが可能であることが特徴である。
後編では明治時代以降の日本の書物から、明治期の思想家である西周が西洋近代の哲学を日本に伝えた『百一新論』、大正デモクラシーの高まりを受けて発刊された総合雑誌『改造』の「大震災号」、高度成長期に発行された月刊誌『少年』の付録漫画「鉄人28号」などが紹介された。
▲
『百一新論』
(西周/1873(明治6)年/出版地:京都/出版者:山本覚馬/木版/印刷博物館蔵)
日本で初めてphilosophy(フィロソフィ)を「哲学」と訳した書として知られている。展示ページには「哲學」の文字が確認できる。西はそのほか「科学」「芸術」「技術」などの哲学系・科学系の用語500語以上を翻訳したという。
『改造』大震災号
(1923(大正12)年11月1日/出版地:東京/出版社:改造社/印刷者:秀英舎/活版/印刷博物館蔵)
『改造』は1919(大正8)年創刊。国内外の政治動向や思想、知識人などを紹介したほか、文芸作品などが掲載された。展示された号は関東大震災直後に発行されたもので、展示ページの冒頭には「地震だ! 外へ出ろ! の聲がきこゆる」といった記述が確認できる。また中段で、改造社から刊行予定であった『アインシュタイン全集第四巻』が震災で焼失したものの、紙型の消失を免れたため後日配本予定であることが報告されている。なお紙型とは、活字組版の上に紙を置き、圧をかけて型を取ったもので、鉛合金を流し込むことで刷版を複製できることから印刷工程の効率化が図られた。
「鉄人28号」(『少年』付録)
(横山光輝/1958(昭和33)年11月号/出版地:東京/出版社:光文社/活版/印刷博物館蔵)
『少年』は1946(昭和21)年11月創刊。小説のほか漫画も掲載された。展示は付録の「とびだすマンガ」で、赤・青の2色が位置をずらして印刷されている。赤・青のセロハンが付いた紙製のメガネが付属し、これを掛けて誌面を見ると絵柄や文字が飛び出して見えるという仕掛けになっている。
なお、会場ではヴァチカン教皇庁図書館の概要および印刷博物館との関わりを解説するコーナーも設けられていた。ローマ・カトリック教会の総本山ヴァチカン市国にあるヴァチカン教皇庁図書館は500年以上の歴史を持ち、聖書のほか人文書を幅広く収蔵している。印刷博物館ではヴァチカン教皇庁図書館を紹介する企画展を過去2回開催しているほか、TOPPANの技術を活用した文化財保護・活用の共同プロジェクトとして、OCR技術で中世ギリシャ語を翻刻する「オデュッセイア・プロジェクト」などを進めているという。
展示を通じて、技術や文化の発展と印刷技術の発展とが不可分な関係にあったことがうかがえる。印刷産業が今後、社会に対してどのような貢献ができるのかを考える機会にもなったのではなかろうか。
(JAGAT 石島 暁子)
名著誕生展 ヴァチカン教皇庁図書館Ⅲ+
会期:2026年4月25日(土) ~ 2026年7月20日(月・祝)
主催:TOPPANホールディングス株式会社 印刷博物館
ヴァチカン教皇庁図書館
協力:明星大学/クロス・フィロソフィーズ株式会社
後援:一般財団法人 日本聖書協会/宗教法人 カトリック中央協議会広報
宗教法人 カトリック東京大司教区
※会員誌『JAGAT info』 2026年6月号より一部改稿














