カラースキャナ創世紀の素描(2)―失敗に終った優先発明

掲載日:2014年8月11日

※本記事の内容は掲載当時のものです。

このルーツから製版印刷用走査機械という、一本の枝が分かれ出た。

 その枝は当時のマーケットに対応する凸版彫刻機となって伸びようとした。この枝を生やした木とは別の地面に、ひこばえがそれ以前に生えていた。光電変換器がこの世に生まれる前の、そのひこばえは機械的に単線やハーフトーンを刻むというもので、C・G・プチは1878年に、石膏のレリーフにV字形の彫刻針で線を彫る機械を考案した。また、N・S・アムスツッツは、1899年に重クロム酸ゼラチンレリーフを、円筒に巻きつけ、やはりV字針で彫刻する、アクログラフという機械を設計した。光電池や光電管の発明で、こういった構想は一挙に走査彫刻の観念に飛躍した。単線や網点を円筒式走査機械で彫刻する発明は、魅力ある課題として多くの発明者をとらえた。アメリカの新聞記者ハーウェイ(W.Howay)という人は、電送写真の機械にヒントを得て、そのよな彫刻機の発明にほとんど後半生をうちこんだ。G・ワシントンも発明に苦心した。ハッシングとニースソンは、1938年に始めて実用の線に手のとどく機械を作った。

 ファクシミリから分かれた枝のひとつは、アメリカのフェアチャイルド会社のスキャナグレーバ(1948年)とドイツのドクターヘル社のクリッショグラフ(1953年)で完全に逞しい大きい幹に育ち、この幹から原色版彫刻機バリオクリッショグラフが生まれ出るにおよんで、それはみずみずしい緑葉をひろげ香わしい花を咲かせた。

 だがこの幹は原色版の凋落とともに、養分の吸収管が枯れ、生々と繁っていた葉はうちしおれた。

 しかしながら、その枝からまた一本の小枝が生えた。グラビアシリンダ彫刻機である。これはヘル会社のヘリオクリッショグラフになり、このほうは元枝をしり目に太く育っている。

 その製版印刷用の枝に、別の分枝が頭をもたげ出した。カラースキャナである。光電管がある、電子工学が発達していく、印刷原稿としてカラーフィルムの応用が発達していく、印刷原稿としてカラーフィルムの応用が増大する、オフセット印刷は印刷の第一勢力をめざす勢いで成長している・・・・この新しい芽にあり余るほどの養分が流れ上がってくるのに、十分すぎるほど肥沃な地盤が醸成された。

 すでに電送写真装置があり、その分流である写真版彫刻機の発明や特許が数しれぬほど知られている。カラー原稿を走査して色分解を行い、あるいはカメラ分解ネガを走査して、色を補正する走査機械が、だれかの頭に宿るための道具だては揃ってきた。

 発見や発明は、ふしぎと二人とか三人とか、まったくたがいに、無関係な複数の人間によって、期せずして同時に行われるという例が多い。

 バイオリズムという言葉を聞いたことが多分おありだろう。人間には、身体の調子と、感情と理性と3つを支配する周期があり、たとえば身体の調子は23日の周期で、S字を寝せた形の曲線をつくり、一本の水平線がS字の中央を水平につらぬく。この中央線から下にカーブがある時期は、身体の衰えをあらわし、上にある時期は体調快調である。Sカーブと中央線が交わる日、これが要注意日で病気になったりする――と、まあ、これは主張者の説である。

 この説を全くばかにする学者もあるが、非常に信ずべきものとする学者も多い。アクシデントとバイオリズムの関係は、おそろしいデータをもって証明されている。アメリカの飛行機事故13件を調べたら10件がパイロットか副操縦士の要注意日であった。2件の汽車の正面衝突事故も、運転士たちの要注意日であったという話が、アジア版リーディ誌にのっていた。

 このバイオリズムが、ドイツの医者フリース博士と、オーストリアの心理学者スウォボダの2人によって、同時に別々に考えられたというのである。しかも2人の考えた周期日数はピタリ一致していた。

 カラースキャナの発明が、やはりダブルヘッドなのである。というよりか、どちらも2人とか3人がチームを作って取りかかったもので、チーム間の競争という形になり、あとでは会社対会社の競争に発展した。そしてひとつのチームの着想は成功し、もうひとつのチームと会社は惨敗してしまった。着想の時代はどちらも1930年代の初期から中頃と推定される。

 1つのチームは、マサチュセッツ工科大学の教授で、色彩学の世界的権威ハーディ(A.Hardy)博士と、インターケミカルという大きい色材会社のワーズバーグ(L.Wurzburg)という人たちである。この人たちの最初のアメリカ特許申請は、1936年9月に受付けられた。カラースキャナに関するものとして最もはやいもののひとつである。このチームはいくつも特許を出して、考えを変えていった末、1940年に一台の走査機械のプロトタイプが作られた。

 この機械は平面走査式のもので、カメラで分解した連続階調値ネガから、ポジにかえして、このポジを3つの平盤ベッドにとりつける。その上には3個の光電管を付けたベッドがある。平らなベッドは前後左右に運動するから、ポジを下から照らした光で走査され、光電変換された電流はコンピュータで修整される。もう1枚の盤に感光板をとりつけ、光源で露光して修整された1色分のネガを手にする。それだから4色分修整するには、この運動を4回くり返さなければならない。しかも、そうして作ったネガからは、カメラで網ポジや網ネガを作る必要がある。

 それもこの機械の運動が早ければよいのだが、この試作機4色分露光するのに、4時間以上もかかったというのでは話にならない。これはインターケミカル・スキャナと呼ばれた。

 この発明は1951年にRCAという、大電子機械会社にバトンタッチされた。RCAは全く機構を一変して、2個のブラウン管と、複雑きわまる電子回路からなるシステムを作った。

 だがその機械も売品にこぎつけるところまではいかず、5年ほどたってから、R・R・ダンレーという世界一の印刷会社に遺骸を引取らせた。ダンレーという会社は、革新技術ならなんでもござれととびつく会社だが、このスキャナばかりはもてあましたようで、それから音沙汰をきかなくなった。つまりこのチームの発明はみのらなかったのである。
『印刷発明物語』(社団法人日本印刷技術協会,馬渡力)より

2002/09/30)(印刷情報サイトPrint-betterより転載)