写真植字機の発明略史(1)先鞭をつけた日本の写植機

掲載日:2014年8月12日

※本記事の内容は掲載当時のものです。

写真植字機は世界中で日本で一番早く実用化された。この事実は日本の印刷関係者なら知らないひとはいないだろう。それも大正の末期から昭和のとっかかりのことである。すべての工業技術と製造機械が「西洋」から輸入されるか、その西洋から入った機械を模範にして、国産化された機械と、それを使う技術に依存していたこの古い時代に、ひとり、写真植字の機械だけが日本で全く独創的に開発され、先進諸国にさきがけて実用化されたということは、わが国の産業機械全体を見渡しても、非常に稀有の事例に属する。

しかも、この日本の写真植字機は、その以前に長い先人たちの苦闘の歴史があったわけではなく、突如として発明者の頭に宿り、その着想が具体化したものである、という点でも発明史上珍しいケースに該当する。

星製薬会社で働いていた青年森沢信夫が、会社の人からイギリスの写真植字機(その人は「光線を使うタイプライタのようなものだ」と表現した)の話を聞き、異常な発明熱にとりつかれて、欧文(英文)の活字を買って来て、いじくっているうちに、「日本の活字(の格)は四角だ!」という発見をしたとき、彼はすでに自分の発明の成功を確信した。 

森沢は明治34年3月23日、兵庫県太田村(姫路の西約8キロ)で、豊治郎、このみの次男に生まれた。小学校卒業で学歴とてないが、生来発明の才能に恵まれ、子供の頃父の経営する鉄工所を遊び場にして、たえず何かを作っていた。彼が作った蒸気機関の模型をのせた蒸気船が池で走り、模型飛行機が飛んだ。

ある機縁から星製薬社長星一に拾われ、大正12年1月この工場につとめた。星は前年外遊した際、新鋭製薬機械を購入して帰った。そのなかにMAN(エム・アー・エン)製の輪転機一台と、付属機械類がふくまれていた。星は工場内に印刷部を新設して、PR新聞の類を印刷するつもりでこの輪転機を買ってきた。

その輪転機は分解されて、30個の箱に詰めて送附され、青写真すらついていなかった。星はその組み立てという難事業を、「印刷部主任」の肩書きといっしょに森沢に命じた。印刷に無経験の森沢は、結局この機械と格闘のすえそれを組立ててしまった。そのとき彼は活字による組版が、いかに原始的かつやっかいな仕事であるを知らされた。

星製薬の図案部長をしていた長沢青衣(角三郎)から、オーガスト・ハンターの英文写真植字機の話を聞いたのは、大正12年大震災の直後であった。あのやっかいな活字が、「光線のタイプライタ」によって、置換されることの便益が、印刷部での経験から直感的に彼の頭にひらめいた。

小さい模型を作り、構想を進めて、大正13年7月24日、「写真装置」の名で申請した写真植字機の特許は、翌14年6月23日、第64453号として認可された。特許権者(発明者)森沢信夫(図1)、特許権者石井茂吉(図2)。

図1:森沢信夫氏
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図2:石井茂吉氏
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石井茂吉は明治20年7月27日東京王子に生まれ、東京帝国大学機械工学科を卒業したエリートである。神戸製鋼に勤めていたとき、星製薬が出した高級技術者募集の新聞広告を見て応募し、選ばれて大正12年に入社した。森沢は長沢をはじめ学識者の石井に、発明の構想を語り相談しているうちに、石井との関係ができ、石井はこの発明に少なからぬ興味と関心をよせるようになった。石井は大正13年退社して、家業の米穀商を営んだ。

森沢は石井の資金に頼って、特許がおりたその発明を実現に移すべく、13年の暮に他2名を加えた4名での協同事業契約書に調印した。試作プロトタイプ機械が、大正14年10月学士会館で公開され、大きい反響を呼び新聞、雑誌に大発明として紹介された。

実用機第1号が昭和4年10月共同印刷に入り、つづいて東京、大阪の大手5社に納入された。しかし、これは大手印刷会社がなか義侠的に買ってくれたもので、ほとんど実用されず、その後需要は途絶した。実用機完成まで、機械本体と機構は森沢の創意と努力により、文字板とレンズ系は石井の苦心によって、唇歯輔車の関係を保ちながら事業は進められた。

しかし、肝腎の機械が売れないことは、経営について責任を負うことを契約した石井家の経済を圧迫した。その窮迫時代2人の事業を支えるために、石井夫人は惨憺たる苦労を続けた。

一方、外界の2人に対する評価と対応のなかで、真の発明者である森沢はつねに無視された。工学士石井の肩書の蔭に森沢の存在はかすんだ。この転倒した外部の評価に傷ついた森沢は、経済の逼迫とともに協同事業の推進を絶望した。そして昭和8年の春、彼は石井と訣別した。

写植時代の開花は、大戦後爆発的な形で現われた。オフセット印刷の大波涛に乗って、それまでほとんどかえりみられなかた写真植字機が、一躍時代の寵児となった。今から約50年前、それの新生時代に誰が今日のこの盛況を予想し得ただろうか。

日本の手動写植機は、初期のそれとは隔世の感があるほど進化している。しかし、基本的な機構の本元は、森沢の創意を踏襲している。それは外国にも類をみない独特なもので、「写真植字」という概念こそ、外国からの借物であれ、具象化された機械そのものは、外国人の知慧に負うところはない。

この偉業をなしとげた森沢と石井は、ともに栄誉をもって、また経済的にむくいられている。発明の功績により森沢は、昭和46年、民間産業功労者としてはかず少ない勲3等瑞宝章を下賜されたほか、印刷文化賞などいくつもの褒賞をうけている。石井は昭和35年その文字に対して菊池寛賞をうけ、昭和38年4月5日死去、生前の功労により従5位勲5等に叙された。森沢は現在80歳で頑健、いぜんとして改良と発明に忙しい。

森沢の業績はドイツの、グーテンベルク博物館に認められ、かれがこしらえた模型、実用1号機、そして最近の写植機の写真を並べた3つのパネルが、1980年フォトン1号機などがおかれている部屋の壁に掲げられた(図3)。

図3
図3

『印刷発明物語』(社団法人日本印刷技術協会,馬渡力)より
(2002/09/30)(印刷情報サイトPrint-betterより転載)