カラースキャナ創世紀の素描(3)―栄冠はタイム社の上に

掲載日:2014年8月12日

※本記事の内容は掲載当時のものです。

ハーディ博士の最初の出願日から、わずか3ヶ月ほどおくれた1937年1月、アレキサンダー・マーレイ(A.Murray)とリチャード・モース(R.Moes)という人が「カラー写真術」という、おおまかな名の特許を出願した。この二人はコダックのグラフィックアーツ研究部に勤務していた。そしてこの特許こそ、正真正銘のカラースキャナの世界最初の発明であった。

このチームはカラー原稿(透過・反射)を、光で走査し、その光をフィルタで三分割し、コンピュータで電子的にマスキングし、UCRをかけ、三色の電流からブラック版ネガを合成露光し、四色分解ネガを同時に作るという、現在のスキャナの基本機能を、この最初の特許に盛りこんだ。

走査露光のメカニズムも、平盤式のもの、円筒式のものを例示していた。その円筒式のものは、後日のPDIのスキャナと大差のない構想であった。

スキャナの大事な役割の一つである、色修整ということも、写真マスキングと同じ原理を、電子的なものに変えたもので、ハーディ博士のように、複雑な理論数式を解くというものとは違っていた。

マーレイは1935年に「近代マスキング法」を発表した。濃度計による数値データにもとづいて、色分解物の色を補正する科学的アプローチの基礎をきずいた。また世界最初の実用的オレンジ・コンタクトスクリンを開発した。かれはカラー複製印刷に新しい世紀をもたらした貢献者のひとりである。

コダック会社は世間には発表しなかったが、1940年頃には試作機を作っていた。その間およびあと、コダックの優秀な技術者たちは、続々とスキャナの特許を出願した。

これに眼をつけたのがタイム・ライフ社である。

雑誌「タイム」は、エール大学出のルースとハッデンという青年によって、1923年に創刊された。この会社は着想と編集と経営の非凡さで、隆々と発展しつづけた。

「生活を見よう、世界を見よう、大事件を目撃しよう」という、ルースの考えたスローガンのもとに、画期的な写真報道週刊誌「ライフ」が創刊された。1936年11月23日づけの創刊号は、ニューススタンドで奪い合いになり、増刷につぐ増刷をもってしても需要をさばききれなかった。

タイムという会社はたんに出版にあまんぜず、他の出版会社よりも卓越するためには、製造技術でも他を制圧しなければならない、という考えをもって、技術研究所をスプリングデールに建設し、いろいろな方法、材料を開発した。

「ライフ」のカラー印刷に革新的なシステムを・・・・、タイム社はタイムリーに開発された、このコダックのカラースキャナに着目した。1946年、このスキャナの特許権一切は、コダックからタイム社に移譲された。スプリングデール研究所は、鋭意その改良完成に努力し、1950年8月6台の実用スキャナを製作した。その最初の機械はHR型というもので、図1は少し改良されたMR型である。タイムの子会社PDI会社(印刷開発会社)は、アメリカをはじめヨーロッパ各地にスタジオを作り、このスキャナをおいて、色分解の求めに応ずるという商売を開始した。それは売らない、リース制なら貸す、さもなければPDIのスタジオを利用下さい、という政策を堅持した。(今では東京の、プリンティング・ディベロップメント会社がその本拠となって、最新のシステムを売っている。)

図1:MR型スキャナ

コダックがスキャナの権利をゆずったのは、機械をつくって売るよりか、スキャナが普及すれば感光材料が売れる、というポリシーによるものであろう。「カメラはフィルムのバーナーだ」と名言を吐いた会社なのだ。

このスキャナは分解スピードが早い、シャープネスが抜群だという評判をとった。世界中にPDIスキャナの名が知れ渡った。コダックが種をまきそだてた苗は、亭々たる大樹になって伸びた。

PDIの栄光は、もひとつのライバルの末路とは対照的なものとなった。

ほかのメーカーもカラースキャナの開発を志していた。なかでもイギリスのクロスフィールド会社は、スキャナトロンという色修整スキャナを、ドイツのルドルフ・ヘル会社はカラーグラフという機械を、あいついで1955年ごろに発表した。スキャナトロンは、2個のブラウン管を使って、カメラで分解した連続調ネガから、色修整を施したポジを作る機械で、これはハーディ博士らの「色修整機」と同じ線を行くものである。日本にも3台ほど入り、せかいに数十台売れたが、この色修整機というのは、過渡期の機械で今では滅亡してしまった。

ヘルのカラーグラフも最初のもの(図2)は、色修整機であったが、色分解兼用機に進化し、これも日本に入った212型というカラーグラフの平面走査方式のスキャナと巨大な真空管式制御盤は、威風あたりを圧するものであったが、あまりにも鈍行なため、やがて製造がうちきられた。PDIをまねたスキャナで、スキャナカラーというのが、フェアチャイルド会社から売出された。これは余り売れず製造がうちきられた。

図2:ヘルのカラーグラフ

PDIスキャナは買うことを許されないし、自家設備として格安なスキャナがほしい__この要望にこたえた、いわゆる一色式の小型スキャナが、イギリスのK・S・ポールという会社から発表されたのは1964年である。(図3)

図2:ヘルのカラーグラフ

これは今日の一般的なスキャナの先駆であり、クロスフィールドは、ダイヤスキャン101型をヘル会社はクロマグラフ100番台シリーズを、1965年にあいついで発表した。

こういった創世記の一色式スキャナの比較表が手もとに残っているからおめにかけよう。現在の諸スキャナと比較すると、隔世の感がある。

どれもフィルムは寸法35×45cmである。

  K・S・ポール クロマ186型 ダイヤスキャン101型
走査線数(1インチにつき) 250、500、1000 500、1000 333、500、1000
走査速度 75秒 47秒 50秒

(↑2.5cmを露光する時間、どれも500線で比較)

大日本スクリーン会社から国産の、一色式スキャナのスキャナグラフの初号が発表されたのは1964年であった。 

『印刷発明物語』(社団法人日本印刷技術協会,馬渡力)より
(2002/09/30)(印刷情報サイトPrint-betterより転載)