写真植字機の発明略史(2)英文機の開発はなぜおくれたか

掲載日:2014年8月12日

※本記事の内容は掲載当時のものです。

1840年には写真術が発明されていた。フランス人ダゲールが銀板写真を完成したのは1839年のことである。1851年には、イギリス人F・S・アーチャーによって、湿板写真が発明された。写真術の発達と普及によって、グーテンベルク以来の活字という、強大な堡塁の一角に攻撃を加えよう、という大それた考えが人々の脳裏に宿りはじめたのは時の勢いというものである。

当然のことだが、初期の発明者たちの着想は非常にプリミティブで素朴なものであった。基本的な構想は反射か透過の文字の種字から、1字ずつ感光材料の上に写し並べていくということであった。その感光材料がまだ未熟で幼稚な時代であったことから、その人たちのなかにはせっかくの工夫を生かすことができず、ほかの手段に道を変えねばならない人も出た。ひと口にいうなら、西洋での写真植字機の着想は、写真術の発明直後に出発したといえる。

これらの初期の発明者たちを、最も苦しめた問題は、アルファベットの活字(発明者らは活字の字を規範とした)が、文字によって幅が違うということであった。

活字は小なりといえども、1個の実体であり5感で感触し認識できるものである。それゆえにこそ、いくら字幅の違う活字で文章を綴っても、整然と揃った行に組むことができる。ところが、写真植字は盲仕事である。感光材の上のどこに、今写した字が写ったか、感光材をどれだけ移動させたら、次の字を写せばよいか、欧文につきものの分かち組み(語と語の間をあけて組むこと)をして、行末をきちんと揃えるにはどうしたらよいか--こんなことがかれらの工夫に重大な障害としてたちはだかった。森沢が「日本の活字は4角だ」と発見したとき、彼はなぜ外国の発明者らが手こずっているかを直感すると同時に、日本文の字なら成功できると確信した。このことは、彼我の間にこのような手ごわい障壁の有無があることを、なによりもよく証明している。

実際的な発明活動は、19世紀末期から今世紀初めにかけて、工業の中心地イギリスに起こった。A・C・ファーガソン、E・ポツォルト、フリースーグリーンなどが手を染める。

フリースーグリーン(William Fraiese-Greene)は発明狂の1人で、写真植字機だけではなく、前史的映画カメラとその映写機の特許をとり公開実演もした。エディソンの映画の発明には、その特許が障害になった。3色映画映写機も発明した。

彼は発明史上きわめて興味ある人物である。発明に対する非凡な才能と、機械工作に対する驚くべき器用さをそなえていたにもかかわらず、物理と化学の初歩すら理解できない、一種の変わり者の天才であった。

漱石の「門」という小説に、インキいらずの印刷の話がでてくる。「・・・・この印刷術は近来英国で発明になったもので電気の利用にすぎない。電極の一極を活字に結びつけ、他の一極を紙に通じて、その紙を活字におしつけさえすればすぐできる。」

この英国の発明というのが、フリースーグリーンの電気的インキ不要印刷術である。1897年に特許をとり、シンジケートを組織して、大々的に実施をはかったが、インキ会社の猛反対と、「世人の無理解」(ある外国誌の言葉)のために蹉跌し、この事業に金銭を使い果して、1921年5月5日、満身瘡痍の姿でロンドン(?)の裏町に窮死した。

世人の無理解とは無理解もはなはだしい。彼の方法は一種の電解発色法で、とうてい普通の活版印刷にかわり得るものではなかった。世人はむしろそれを理解したから、彼に出資しなかったのである。

漱石が渡英した1900年ごろは、このインキいらずの印刷法が、ジャーナリズムを賑わせている最中であった。

第1次大戦と第2次大戦の間に、A・E・バウトリー、アーサー・ダットン、オーガスト・ハンター(この人の発明が森沢にアイデアをあたえた)などの努力があり、1925年頃かなり本格的なシステムの、ウーハータイプが出現、アメリカの発明の天才ヒューブナーも特許をとった。どれもものにならずじまいに終わった。

『印刷発明物語』(社団法人日本印刷技術協会,馬渡力)より
(2002/09/30)(印刷情報サイトPrint-betterより転載)