写真植字機の発明略史(3)電算制御自動機の開発

掲載日:2014年8月12日

※本記事の内容は掲載当時のものです。

はじめて長かった欧文写植機の苦難の道程を突破したのは、アメリカのインタータイプ会社であった。

この会社はフォトセッタ(Fotosetter)の名で、その写植機を1948年に発表したが、売り出されたのは1950年であった。

インタータイプはライノタイプとほとんど同様なホットメタル(活字)行鋳植機械で、各文字の単母型が各字多数ずつ、マガジンのたてみぞの中に入っており、オペレーターが機械の一部分であるキーボードを操作すると、母型がマガジンから降りてきて、それが1行ぶん集合される。そこでハンドルを押すと、その母型群がひと塊になって鋳造部分に移動し、1行ひと塊にできた活字スラッグ(棒)が鋳造される。鋳造を終えた母型は自動的に、もとの古巣のマガジンの中に戻される、じつに巧妙な仕組みの機械である。

フォトセッタは、このホットメタル用の単母型の横っ腹に丸い穴をあけて、そこにA、B、Cと1字1個ずつ透明ネガ種字をはめこんだものを使った。そして鋳造装置の代りにカメラ装置をおきかえ、1行ぶん並んだ母型(フォトマット)から、1個ずつの母型が上にとび上がり、ロールフィルムに順次写されていくのである。図30はその原理の図解である。人間のキーボード作業であるから、出力はその手腕に左右されるが、1分間480字は写せると称した。

図30
図30

私が1960年にインドのニューデリーの印刷局を見学したさい、役人たちがさも自慢そうに、この機械を見せてくれたが、その機械はどっさりほこりをかぶっていた。とはいえ、フォトセッタは世界的に何百台か売れたようである。むろん今では製造していない。しかしこれが実用欧文機のパイオニアであった、という意味で歴史に残るだろう。

つづいて、インタータイプ会社は、テープ操作の本文専用機フォトマティックを発売した。また約10年ほどおくれて、イギリスのモノタイプ会社も、モノタイプのメカニズムを換骨奪胎した、モノフォトという第1世代写植機を作った。これもとくにヨーロッパの書籍植字用に売れたようである。

この二つは、どちらも機構的に洗練されていた、ホットメタル鋳植機の写植版という、新味と創意にとぼしい、間に合せ的な機械である。その運動はまったく機械的で、19世紀的発想のものであった。

ここに第2世代機の先ぶれともいえる、非常に独創的な発明があらわれる。

フランスのリオン市で、アメリカのMIT(マサチュセッツ工科大学)のために、情報・特許サービスを仕事としていたルネA・イゴンネット(Higon-net)は1944年の春、ある1人のリオンの印刷業者を招いた。彼は印刷について何も知らなかったので、いろいろの方法を聞きただした。そしてアマチュア写真家であったイゴンネットは、とくにオフセットに興味をもち、オフセットなら活字を使わずとも、サーフェース・タイポグラフィ(表面的活版)ができるではないかと思った。

この考えをスイスのタイポン会社に伝えてやったが、タイポンの返事は否定的だった。おそらく、それなら自分でそのサーフェース・タイポグラフィを、写真的に作る方法を考えようと思ったのであろう。電気通信技術者のルイM・ムワロー(Louis M.Moyroud 図31)と協同し発明にとりくんだ。

図31
図31

彼らは活字の植字機の働きが、電話交換台の仕事に似ていることに気づいた。根がそのほうの技術者だから、メカニズムはムワローが担当したのであろう。彼らの構想は文字の記憶配列を電気的に(電子的にではない)やろうということから出発した。

1945年から作業にかかり、6月15日に有名なエコーレ・エチェンヌ大学で、2人は原型機械を権威者たちの前で実演した。それはまことにお粗末な道具であったが、これが今の自動(電算)写植機の芽生えなのであった。

しかし、フランスでは企業化が思うようにいかないので、2人は1946年にアメリカに渡ってデモンストレーションした。そして、マサチュセッツのケンブリッジに、「印刷研究財団」という組織が、出版・新聞・印刷・植字関係者の出資で作られ、2人の「リソマット」という名の特許権はこの財団の手に移り、1948年それはフォトン会社の創立とともにまた移り、W・W・ガースが社長に就任した。(このガースはあとで、コンピュグラフィック会社を創業し、安くて重宝な写植機を売り出して、この世界に1つの革命を起こしたことは有名は話である。)

最初の実用機フォトン200シリーズは、1956年に発売された。それは1台の機械にキーボードと、制御装置と写真装置を複合したもので、その運動はディジタル・コンピュータでない、電磁的なリレーやスイッチ群で支配されているののであった。しかし、この機械は自動機の機構基盤をうちたてた。図32はその要部写真、レンズターレット、文字選択装置を中心としてなる自動機の1つの典型が、このフォトン200型で実現されたのであった。(それがコンピュータ支配に変わるのは時間の問題にすぎなかった。)フォトンで写植された最初の本はラインハート出版社の「驚異の昆虫世界」であったが、編集者は校正訂正に手こずったという。

図32
図32

不幸なことに、この200シリーズは多目的写植機をめざし、当時の自動写真植字機のマーケットが、新聞界であることを見通すことができなかったために、機械の売れゆきは牛の歩みのようにもどかしかった。(あとでフォトンは500型を作ってこの市場をめざす。)

ついでに書くとフォトン会社は、負債2600万ドルをかかえ、1974年11月破産法の適用をうけ、ダイモ・インダストリース会社に買収された。発明者の1人ムワローは、現在スイスのボブスト会社に移り、同社の写植機の改良にたずさわっている。もうひとりのインゴネットは、フランスでルミタイプ(フォトンのヨーロッパ名)会社をやっていたようだが、現在はどうなっているかわからない。

日本の自動写植機サプトンN型が発表されたのは、このフォトン200型におくれることわずか4年、1960年であった。それはす早い写研の開発力を示すもので、この年日本にも自動写植の道がひらかれた。その作動原理と機構は、フォトン200型そっくりであった。

『印刷発明物語』(社団法人日本印刷技術協会,馬渡力)より
(2002/09/30)(印刷情報サイトPrint-betterより転載)