初春の月に万葉びとは何を想うか

掲載日:2019年5月13日

5月1日の改元から2週間経ち新時代の高揚感が続く中、改めて、令和の典拠となった『万葉集』について考える。

梅花歌卅二首

令和の典拠は、『万葉集 巻第五』の「梅花歌卅二首并序(ばいかのうたさんじゅうにしゅあわせてじょ)」の序文にある
初春令月 気淑風和」である。
本編では、これに「梅披鏡前之粉蘭薫珮後之香」と続く
読みは
「しょしゅんのれいげつにして、きよくかぜやわらぎ、うめはきょうぜんのこをひらき、らんははいごのこうをかおらす」

この序文は、730(天平2)年の正月13日(太陽暦2月8日頃)に、当時大宰府に赴任していた大伴旅人の邸で開かれた梅花の宴で詠まれた歌につけられた。

参考:新元号“令和”の出典となった万葉集の部分を見たい。 | レファレンス協同データベース

▲萬葉集. 巻5-6(国立国会図書館デジタルコレクション)より
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2569911

大伴旅人は、万葉集の編纂に関わった大伴家持の父である。朝廷の元で左将軍や征隼人持節大将軍など要職に就いたのち、60歳を過ぎてから大宰帥(大宰府の長官)となる。

『万葉集』に収録された旅人の歌78首のうち、多くは大宰帥任官以後に詠まれている。

「梅花歌卅二首并序」で旅人自身が詠んだ歌を紹介する。

わが園(その)に梅の花散るひさかたの天(あめ)より雪の流れ来るかも[主人(あるじ)]

原文(万葉仮名)
和何則能尓 宇米能波奈知流 比佐可多能 阿米欲里由吉能 那何列久流加母[主人]

意味「わが庭に梅の花が散る。天涯の果てから雪が流れ来るよ。」(出展:『万葉集 全訳注原文付(一)』講談社刊)

白梅の花びらが散る様を、天空から降ってくる雪にたとえている。

この宴には、旅人と親交のあった山上憶良も参加し、以下の歌を詠んでいる。

春されば まづ咲くやどの 梅の花 独り見つつや 春日暮らさむ [筑前守山上大夫]

原文(万葉仮名)
波流佐礼婆 麻豆佐久耶登能 烏梅能波奈 比等利美都々夜 波流比久良佐武[筑前守山上大夫]

意味「春になると最初に咲く我が家の梅花、私一人で見つつ一日を過ごすことなど、どうしてしようか。」(出展:『万葉集 全訳注原文付(一)』講談社刊)

せっかくの梅の花を一人で愛でては寂しい。皆で喜びを分かち合おうという意味合いだ。
旅人は、大宰府に妻を伴って赴任したが、まもなく、その妻を亡くしてしまう。上記の歌は、伴侶を失ったばかりの主人に対する心づかいとも言われている。

『万葉集』の時代

旅人が生きた時代は、貴族の間の勢力争いがあり、彼自身、反乱の鎮圧に当たることもあった。飢饉や疫病の流行などもあり、決して平穏な時代ではなかった。
加えて大宰府では、慣れない土地での生活や、妻に先立たれた喪失感など、心労が重なっていたと思われる。
そんな中でも、友と一緒に、自然を愛で、酒を酌み交わし、歌を詠み合うことで、心の豊かさを保っていたのではないだろうか。


『万葉集』は、全て漢字で書かれているが、歌を記した部分では、漢字を日本語の音節を表すために使っている。
「万葉仮名」と言われているが、実は時代を遡ること5世紀頃には、既に使われていたことが分かっている。

万葉仮名は、やがてカタカナやひらがなに発展し、日本独特の文字文化が展開されるようになる。

私たちは『万葉集』によって、当時の日本人が大陸文化に敬意を払い、その真髄を吸収しながらも、独自の文化を築くべく模索していった過程を読み取ることができる。

いつの時代にも読み継がれるべき文献である。

(JAGAT 研究調査部 石島 暁子)