「お札と切手の博物館」では特別展示「紙幣寮の銅版画師 ―明治時代を鐫(きざ)んだ職人の技―」を1月14日〜3月8日まで開催した。明治時代の初期に、国立印刷局の前身である紙幣寮から委託されて、切手や証券類の原版製作に携わった銅版画師に焦点を当てることで、当時の紙幣寮の活動や製造の歴史を紹介するものであった。その概要を紹介する。

「お札と切手の博物館」は独立行政法人国立印刷局が運営する展示施設である。
国立印刷局はお札(正式名称:日本銀行券)をはじめ切手・証券類・官報などを製造する財務省所管の組織であり、そのルーツは1871(明治4)年に旧大蔵省内に設立された紙幣司(その後、紙幣寮と改称)にまでさかのぼる。
江戸時代では、幕府が金貨・銀貨・銅貨を発行することで貨幣制度の確立を図ろうとしていた。しかし、江戸・大坂・京都を除く地方の藩では財政補填などの目的で、領内のみで流通する「藩札」も発行しており、実態として貨幣の統一はなかなか進まなかった。さらに藩札は乱発される傾向にあり、貨幣価値の下落にもつながった。
そこで明治期に入ると、政府は近代国家としての経済基盤を確立するために、全国共通の紙幣の製造とその唯一の発行元である中央銀行の設立に注力した。これらの目的を遂行するために創設されたのが紙幣司である。その業務は紙幣の発行・交換、国立銀行(民間銀行)の認可・育成など通貨行政事務全般にわたり、1872(明治5)年から切手、1873(明治6)年からは紙幣・公債・印紙の製造監督業務も担うことになった。
だが、創設当時の紙幣司(寮)は工場設備を所有していなかったことから、原版製作から印刷までを民間の銅版画師などに委託した。
御用銅版画師らは、江戸時代から引き継がれた技法である腐食凹版 1によって細密な図柄を原版に刻み、日本初となる全国共通紙幣や切手のほか公債証書などを製造した。
しかし、比較的簡素なデザインで、長年使われてきた印刷技術であったために偽造も横行していた。そこで政府はこれに対処すべく、最新の印刷技術を持つ海外の印刷会社に紙幣の製造を委託し、そして1875(明治8)年にイタリアから銅版画家のエドアルド・キヨッソーネを招聘、さらに最新の製版・印刷機材などを輸入し、1876(明治9)年には紙幣寮の印刷工場が常盤橋(現・大手町)に落成した。キヨッソーネは腐食凹版よりも精度の高い直刻凹版2 による原版製作や、当時の最新の製版技術であったエルヘート凸版法3 などを伝授するとともに、自ら製品の原版彫刻も行った。こうして精緻で均質な紙幣の国内製造が可能になったのである。一方、技術革新の流れの中で御用銅版画師らは役目を終え、短期間で紙幣寮を去ることとなった。
こうした概略を踏まえたうえで、次に本展の概要について触れたい。企画を担当した学芸員によると、活動の全容については現時点でも不明な点が多い御用銅版画師の中でも、本展では活動実績が比較的明らかであり、かつ重要な役割を果たしたと思われる人物として松田緑山(ろくざん)、梅村翠山(すいざん)、柳田龍雪(りゅうせつ)、中村月嶺(げつれい)の4人を取り上げたとのことである。
会場では各人が手掛けた製品や銅版画作品のほか、活動実態の一端を示す資料として、中村月嶺が受注した製品内容の記録帳「紙幣寮 御下絵上納覚(おんしたえじょうのうおぼえ) 御用控」(以下、「御用控」)4 の原本と一部複製を展示。また、キヨッソーネの業績を示す製品や資料なども展示されていた。
以下では、展示内容をもとにそれぞれの功績を紹介していこう。
松田緑山[1837(天保8)年~1903(明治36)]
京都の銅版画舗「玄々堂」2代目として、父・松本保居(やすおき)が得意とした微塵銅版(びじんどうはん)の技術を継承した。3cm四方の中に千字文を彫るほどの細密描写が特徴で、幕末には複数の藩から藩札原版製作を依頼されていた。その技術と実績を明治政府に買われ、日本初となる全国共通紙幣「太政官札」の原版製作の命を1868(慶応4)年に受けた。その後、上京して玄々堂東京出張所を設け、紙幣のほか切手や証券の製造を手掛けたが、1874(明治7)年、請負制度の廃止に伴い御用御免となった。以降は銅版・石版の事業を行い、若手の育成にも努めたとされる。
会場では松田緑山が原版を手掛けた「太政官札 金5両」の表裏を、その印刷に使用した銅版と合わせて展示。そのほか、日本初の切手「龍文切手」や、「秩禄(ちつろく)公債証書」なども展示された。
梅村翠山[1839(天保10)年~1906(明治39)年]
上総国武射郡(かずさのくにむさぐん)南蓮沼村(現在の千葉県山武(さんむ)市)に生まれ、独学で技を習得した。1871(明治4)年に神田弁慶橋近傍福田町で印刷会社「慶岸堂」を開き、1873(明治6)年に紙幣寮から切手や印紙の原版製造を委託されるようになった。松田緑山と同じく1874(明治7)年に御用御免となり、その後、日本最初期の石版印刷会社「彫刻会社」を設立した。
会場では、同社が表紙を手掛けた時局風刺雑誌『團團珍聞(まるまるちんぶん)』が展示されていた。

梅村翠山主宰の彫刻会社が表紙を手掛けた雑誌。
正式名称は『於東京絵團團珍聞(おどけえまるまるちんぶん)』。
ジャーナリストの野村文夫らが中心となって創刊した。
社説や戯画などにおいて政府の施策に対し皮肉を加えたことで、人気を博したとされる。
(写真提供:お札と切手の博物館)
柳田龍雪[1833(天保4)年~1882(明治15)年]
現在の鹿児島県で、刀具彫刻を生業とする家に生まれた。薩摩藩の御用絵師として頭角を現し、洋画勉学の命を受けて1871(明治4)年に上京した。その後、海軍省水路局での勤務やイギリス留学を経て、1873(明治6)年に紙幣寮に奉職した。
柳田龍雪が手掛けたことが判明している製品は少ないものの、会場では「御用控」の中から「公債証書6組」の図案を担当していたことが明記されたページ(複製)が展示されていた。

右端に「七年十一月/公債證書六組圖案/柳田」の記載がある。
中村月嶺[1846(弘化3)年~1922(大正11)年]
江戸京橋区南伝馬町で、唐木指物師の家に生まれた。1872(明治5)年頃から柳田龍雪に銅版彫刻印刷技術を学び始め、1874(明治7)年に紙幣寮に奉職したが1875(明治8)年に辞職。そして1876(明治9)年に京橋で銅版石版印刷会社「晴雲閣」を創業した。
会場では、中村月嶺が下絵を担当した手彫りはがき、紙幣寮を辞した後に手掛けた「歌曲館演劇之圖」(『英國龍動新繁昌記』挿画)などのほか、「御用控」の中から、それらの受注内容が記されたページ(複製)が展示されていた。
柳田龍雪と中村月嶺による共同製作「鳥切手」
「御用控」には、柳田龍雪と中村月嶺が共同で「鳥切手」と呼ばれる切手の原版製作を手掛けたことが記されている。鳥切手とは1873(明治6)年に締結された日米郵便交換条約に基づき発行された国際郵便向けの普通切手のことで、鳥の図案が描かれていることからこの名称で呼ばれている。
会場では鳥切手のほか、「御用控」の中から受注内容が記載されたページが展示されていた。
エドアルド・キヨッソーネ[1833年~1898年]
イタリアに生まれ、銅版画家として名を成したのち、ドイツ・フランクフルトの紙幣・証券印刷会社ドンドルフ・ナウマン社に雇われた。明治政府が同社に紙幣製造を発注した際、原版彫刻に従事したことが縁となって、1875(明治8)年に来日。製品製造と後継者の育成に努め、1891(明治24)年に退職した後も終生日本にとどまった。
会場では、原版製作を手掛けた新紙幣(ゲルマン紙幣)や、通称「小判切手」などが展示されていた。
御用銅版画師らの活動期間は、10年にも満たない短いものであった。とはいえ、日本に近代的な貨幣制度が確立する過渡期において政府の事業を支え、その後も印刷業界に寄与したという点は注目するべき事実であろう。
本展は、国立印刷局のルーツを知り、御用銅版画師ら職人の功績の一端に触れることのできる貴重な機会だったといえる。
紙幣寮の銅版画師 ─明治時代を鐫んだ職人の技─
会期:1月14日(水)〜3月8日(日)
会場:お札と切手の博物館 2階展示室
(JAGAT 石島 暁子)
※会員誌『JAGAT info』 2026年2月号より一部改稿
関連ページ
- エッチングともいう。銅板の表面に腐食防止剤を塗布して針で画線部に傷を付けた後、板を薬液に浸して画線部を腐食させて凹版を得る手法。 ↩︎
- エングレーヴィングともいう。銅板に針で直接画線を彫る手法。 ↩︎
- 凹版を反転させて凸版を起こす技法。彫刻凹版印刷は精緻な線を表現することができるが、印刷速度は凸版印刷に劣る。そこで、彫刻凹版の線を生かした凸版を得るためにこの技法が用いられた。 ↩︎
- 記載内容は受注案件名・作業分担・製作期間・出勤日・俸給など多岐にわたる。表紙に「柳 中」の記載があることから、中村月嶺のほか柳田龍雪も記録に関わった可能性があると考えられる。記録の日付は1874(明治7)年から始まり、中村月嶺が紙幣寮を辞した後の1886(明治19)年まで続いていることから、経営していた会社(晴雲閣)の請負記録としても使用されていたことがうかがえる。 ↩︎











